諸葛瞻

諸葛瞻
清代の書物に描かれた諸葛瞻
代の書物に描かれた諸葛瞻
蜀漢
武郷侯・行都護衛将軍
出生 建興5年(227年
成都
祖籍:徐州琅邪郡陽都県
死去 炎興元年(263年
益州綿竹県
拼音 Zhūgě Zhān
思遠
主君 劉禅
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成都武侯祠の諸葛瞻塑像

諸葛 瞻(しょかつ せん、227年263年)は、中国の三国時代の武将政治家。蜀(蜀漢)の丞相諸葛亮の子。字は思遠徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)の人。子は諸葛尚諸葛京らがいる[1][2]。『三国志』蜀志「諸葛亮伝」や魏志「鄧艾伝」等に記録がある。

経歴

諸葛亮は黄承彦の娘(黄夫人)を妻としていたが(『襄陽記』)、諸葛瞻の生母であるかどうかは明らかではない。瞻が生まれた時の諸葛亮の年齢は46歳と比較的高齢のため、側室との間の子である可能性もある。

父の諸葛亮は234年、武功に出陣(北伐)するときに呉に仕える兄の諸葛瑾に対し手紙を送り、8歳になる諸葛瞻が見せる利発さと、早熟すぎて長じて大物になれないのではないかと心配する気持ちを伝えている。

父の諸葛亮が亡くなると、父の爵位である武郷侯を継ぎ、また周囲からの期待を受けた。17歳の時、皇帝劉禅の娘を娶り、騎都尉を拝命。翌年、羽林中郎将となり、射声校尉、侍中尚書僕射と昇進し、軍師将軍を加えられた。

書画が巧みで、記憶力が良く、諸葛亮を追慕する人達から愛された。彼らは何か慶事があるたびに諸葛侯のおかげともてはやし、諸葛瞻は実力以上の評判を受けるようになったという。

261年、行都護衛将軍となり、董厥と共に平尚書事となり、董厥や樊建と共に国政を動かす地位となったが、劉禅が信任する宦官黄皓の専横にはなすすべもなく、諸葛瞻と董厥は黄皓と私的な関わりを持つようになったという。

262年、蜀の軍権を握る姜維の失脚を黄皓が願うようになると(「姜維伝」)、董厥と共にこれに同調したが、成功しなかった。諸葛瞻自身が姜維に代わって閻宇を取り立てるよう上奏したともいわれる(孫盛『異同記』)。閻宇については黄皓と結託していたと明記されている(「姜維伝」)。

263年、魏の大軍が蜀に侵攻し、姜維を始めとする防衛軍の大半が剣閣で釘付けとなる中、魏将の一人である鄧艾が陰平の間道を経由し、蜀の前線防衛陣を掻い潜って成都を突こうとした。このとき、諸葛瞻は劉禅の命により出撃する。諸葛瞻は涪まで軍を進めて戦況をうかがうのみで積極的に迎撃に出ようとしなかったため、黄崇黄権の子)にその指揮を批判された。黄崇は涙を流しながら出撃を願ったが容れられなかった。鄧艾は間道を経由し、江油の要害を難なく陥落させた。

諸葛瞻は先鋒隊が敗れたので涪より後退し、綿竹に陣営を構えた。鄧艾は手紙を送り降伏を勧めたが諸葛瞻は受け入れず、激怒して鄧艾の使者を斬った。諸葛瞻は緒戦では魏軍を退けたが、鄧艾の猛攻の前に大敗し、息子の諸葛尚張遵張飛の孫で張苞の子)、黄崇、李球(李恢の甥)と共に戦死した(蜀漢の滅亡)。

後代、四川省綿竹市諸葛双忠墓祠が造られ、綿竹防衛戦で戦死した諸葛瞻・諸葛尚・張遵・黄崇・李球が、諸葛亮と共に祀られている[3][信頼性要検証]

評価

『三国志』の編者で蜀の旧臣でもある陳寿は、諸葛瞻は実力以上の名声を得ていたと評した。

是以美聲溢譽,有過其實。
陳寿、三国志 蜀書 巻35「諸葛亮伝」

ただし、陳寿がかつて諸葛瞻の下役だった時に恥辱を受けたため、曲筆したという説もある(孫盛『異同記』)。

華陽国志』によれば、泰始四年(268年)に王富なる元兵士の逃亡犯が「諸葛都護(諸葛瞻の行官は都護。すなわち諸葛瞻のこと)」の名を騙って数百人の仲間を集め反乱を起こし処刑されたという事件が記載されている[4]。この事件は一般民衆にも諸葛亮が根強く愛され、諸葛瞻の人気もまた高かったことをうかがわせる。

武帝は詔勅を出し、諸葛瞻が国難に殉じ信義を守ったことを評価した(『晋泰始帰居注』)。

干宝は、諸葛瞻の能力はさほど評価するほどではないが、国家を守り父の志を継いで忠孝を尽くそうとした点は評価した。

三国志演義

小説『三国志演義』では、生母は黄夫人であると紹介されている。宦官の黄皓の横暴に反発し病と称して門を閉ざしていたが、魏の侵攻が始まると、郤正の薦めを受けた劉禅によって召還されて出撃し、史実と同様に綿竹の守備につく。一度目は父の木像と共に出陣し「諸葛亮が生きていた」と魏軍を混乱させ、二度目は諸葛尚の活躍で魏軍を敗退させている。そして鄧艾から降伏して魏に仕えるよう迫られると、使者を斬ることでこれを拒絶し出撃するが今度は敗北し、呉に救援を求める使者を送り到着前に出撃し戦死している。

家系図

諸葛豊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛珪諸葛玄龐徳公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛瑾諸葛亮諸葛均
 
龐山民龐統龐林諸葛誕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛恪諸葛喬諸葛融諸葛瞻諸葛懐諸葛望龐宏諸葛靚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛攀諸葛尚諸葛京諸葛質諸葛恢
 
 
諸葛顕

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ の学者・張澍が記した『諸葛忠武侯文集』のうち「諸葛氏譜」「朝真観記」「雑記」・『編集諸葛忠武侯文集自序』によれば、諸葛瞻は諸葛質という子と諸葛懐という弟がいたと記されている。
  2. ^ 諸葛亮の子孫を称している、浙江省蘭渓市にある諸葛八卦村という村は1992年になって家系図が見つかったとして諸葛京の血筋であることを自認している。
  3. ^ 三国遺址探訪:諸葛双忠墓祠 2024-01-15閲覧
  4. ^ 『華陽国志』巻八
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝