孫峻

孫峻

丞相・大将軍・富春侯
出生 建安24年(219年
揚州呉郡富春県
死去 五鳳3年9月14日[1]256年10月19日
揚州丹陽郡建業県
拼音 Sūn Jùn
子遠
主君 孫権孫亮
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孫 峻(そん しゅん)は、中国三国時代の武将・政治家。字は子遠。呉の皇族である孫氏の一族。曾祖父は孫静。祖父は孫暠。父は孫恭。伯父は孫綽・孫超。従弟は孫憲孫綝孫拠・孫恩・孫幹孫闓。『三国志』呉志に伝がある。

生涯

父は呉に仕え、散騎常侍にまでなっている。孫峻は馬術弓術に巧みで、思い切りが良かったという。

孫権時代の末期に武衛都尉から侍中となった。孫権は二宮事件の際、孫和孫覇の争いに決着をつけようと、孫和の廃位を臣下に相談した。このとき、孫峻はその相談相手となった。孫権は孫和を廃位し末子の孫亮を立てた[2]

後に孫権の病が重くなり、争いの真相に気づいて孫和を許そうとしたときは、孫弘や全公主(孫魯班)と共にこれを阻止したという[3]。孫権臨終の際には、孫権に対し諸葛恪を自らの補佐役にするよう、強く推薦した[4]。孫峻は武衛将軍・侍中・都郷侯となり、政務一般の輔弼を孫権から委ねられた。孫権の死後、まもなく孫弘が諸葛恪の暗殺を謀ると、孫峻はそのことを諸葛恪に知らせ、共に孫弘を殺害した[5]

孫亮が即位すると、諸葛恪・滕胤と共に協力して政治を行なった。しかし諸葛恪は、魏への遠征を強行し敗戦すると[6]、権力的な不安から次第に独裁色を強め、近衛軍の人事などをめぐり孫峻らと対立した。そこで孫峻は、孫亮を抱き込み、諸葛恪を宴会に呼び寄せた上で、勅命と称して自ら斬殺した。孫峻は宴席の場で、諸葛恪の側近の張約の右腕を自ら剣をふるって斬り落とし、騒ぎを聞きつけた衛兵が来ると、諸葛恪を殺害したことを告げて衛兵を下がらせ、床を掃除させるとそのまま宴会を継続したという[7]。また、騎督の劉承に命じて、逃亡した諸葛恪の一族や張震・常侍の朱恩などそれに連なる人達を追撃させ、ことごとく殺害した。さらに、孫和をも諸葛恪と謀って復権を目指していたとして、印綬を没収し新都に強制移住させた上で自殺を命じた[8]。諸葛恪と親しかった聶友を疎んじ、鬱林太守へ左遷することを企て、聶友を憂死させた[9]

滕胤が諸葛恪と親しく、また縁戚でもあったため、自ら辞職を申し出てきたが、孫峻は慰留させた。群臣達は孫峻を太尉に、滕胤を司徒に任命するよう上奏したが、孫峻に阿る者達がいたため実現しなかった[10]。結局は、孫峻が丞相大将軍・富春侯となり呉の実権を掌握することになった。丞相の副官である御史大夫は設置されなかったという[11]。孫峻と滕胤は内心しっくりしなかったが、表面上はお互いを立てたため、共同歩調をとることができた。孫峻は滕胤を高密侯に昇進させた。

孫峻の政治は、諸葛恪と何ら変わらぬ、帝を傀儡とした専横だった。さらに、元々名声がなかったことに加え、多くの人々を処刑したり、全公主(孫魯班)と密通し、全公主の意を受けて毎晩宮女を犯すなど専横を極めたため、周囲から恨まれた。

五鳳元年(254年)秋[12]孫英[13]が孫峻の誅殺を計画したが、計画が洩れたため自殺した。

翌五鳳2年(255年)春正月[12]、魏の毌丘倹文欽寿春で反乱を起こし、魏の追討軍を迎撃するため寿春を留守にした。孫峻はその隙に乗じて、呂拠留賛を率いて寿春を襲撃しようとした[14]。しかし、魏の司馬師が項城で毌丘倹[15]、楽嘉で文欽を引きつけている隙に、諸葛誕に命じて寿春を平定させたため、先んじられた孫峻は軍を撤退させざるをえなかった(毌丘倹・文欽の乱)。その途中、楽嘉で敗北した文欽が数万の兵とともに投降してきたため、これを迎え入れた[16]。撤退時に呂拠・丁奉は高亭で魏の曹珍を破った。留賛が病気になったため帰還させようとしたが、留賛は諸葛誕が派遣した蔣班の別働隊から追撃を受け、菰陂において将軍の孫楞・蔣脩と共に殺害された[12]

同年3月、朱異に命じて安豊を攻撃させたが、陥落させることが出来なかった[12]

同年秋7月、蜀漢から使者がやってくると、将軍の孫儀・張怡・林恂は会見の宴席上で孫峻を誅殺しようとした。しかしまた計画が発覚したため、孫儀らは自殺した。この計画で数十人の者が連座し、朱公主(孫魯育朱拠の未亡人で、劉纂の妻)も誅殺された。

孫峻は広陵に城を築き、北伐の拠点にしようとした。滕胤がこれを諌めたが、孫峻はそれを黙殺して続行させた。しかし、城が完成することはなかったため[17]、民衆は餓え、軍士らも心が離れたという[18]

五鳳3年(256年)8月[12]、寵愛する降将の文欽[19]の勧めにより、文欽・劉纂・呂拠・朱異・唐咨を先鋒にして、青州・徐州へ侵略しようとした。孫峻は滕胤と共に石頭まで出かけ、出征軍のために宴席を張り、従者を100人ほど引き連れて呂拠の陣屋に入った。しかし、呂拠が軍を乱れなく統率している姿を見て、警戒する気持ちが強くなり、心臓の具合が悪いと称しすぐに引き揚げてしまった。

孫峻はまもなく、諸葛恪に殴られる夢を見たため、それに恐れ病に倒れ、そのまま同年9月に病死した[20]。39歳であった。

孫峻の死後、遺言により孫綝が孫峻の立場を引き継ぐことになった。孫綝は対立する呂拠や滕胤を滅ぼし、孫峻と同様に専横の限りを尽くした。やがて孫綝は孫亮を廃位し孫休を立てたが、孫休の謀略により処刑された。孫峻は墓を暴かれ、副葬品の印綬を剥奪された上で、棺を削って埋め戻されたという。孫休は孫峻・孫綝と同族であることを嫌い、彼等2人を一族の系図から外し、「故峻」「故綝」と呼ばせるようにした。

小説『三国志演義』でも、諸葛恪が暗殺される場面で、その首謀者として登場する。

参考文献

脚注

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  1. ^ 『三国志』呉志「三嗣主伝」
  2. ^ 『三国志』呉志 呉主五子伝 が引く『通語』
  3. ^ 『三国志』呉志 呉主五子伝 が引く『呉書
  4. ^ 『三国志』呉志 諸葛恪伝 が引く『呉書』
  5. ^ 『三国志』呉志 諸葛恪伝
  6. ^ 『三国志』呉志 三嗣主伝。建興2年(253年)3月に出征、4月に合肥新城を包囲するが陥落させられず、8月に帰還。
  7. ^ 『三国志』呉志 諸葛恪伝。なお、呉志 三嗣主伝 によると諸葛恪が誅殺されたのは建興2年(253年)10月。
  8. ^ 『三国志』呉志 呉主五子伝
  9. ^ 『三国志』呉志 諸葛恪伝
  10. ^ 『呉録』
  11. ^ 『呉録』
  12. ^ a b c d e 『三国志』呉志 三嗣主伝
  13. ^ 『三国志』呉志 呉主五子伝 によると、元太子の孫登の子。
  14. ^ 『三国志』呉志 三嗣主伝 によると、五鳳2年(255年)閏正月。
  15. ^ 『三国志』魏志 毌丘倹
  16. ^ 『三国志』呉志 三嗣主伝 によると、五鳳2年(255年)閏正月19日。
  17. ^ 『三国志』呉志 呉主五子伝 によると、衛尉の馮朝が築城を命じられたとあり、また、将軍の呉穣が広陵太守、留略東海太守に任命されたとある。また、同書同伝によると、馮朝が監軍使者・督諸軍事に任命されている。
  18. ^ 『三国志』呉志 三嗣主伝
  19. ^ 『三国志』魏志 毌丘倹伝 が引く『呉書』
  20. ^ 『三国志』呉志 三嗣主伝
呉の丞相(第5代:253年 - 256年)

孫邵222-225 / 顧雍225-243 / 陸遜244-245 / 歩騭246-247 / 孫峻253-256 / 孫綝258-259 / 濮陽興262-264 / 陸凱(左丞相)266-269 / 万彧(右丞相)266-272 / 許沇276年当時 / 張悌279-280

陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
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巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
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巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
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巻47 呉主伝
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巻50 妃嬪伝
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巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
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巻62 是儀胡綜伝
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巻65 王楼賀韋華伝