吾粲

吾粲

太子太傅
出生 不明
揚州呉郡烏程県
死去 赤烏8年(245年
拼音 Wú Càn
孔休
主君 孫権
テンプレートを表示

吾 粲(ご さん)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は孔休。揚州呉郡烏程県の人。『三国志』に伝がある。

生涯

生まれた時から九卿宰相の顔相があったという(『呉録』)。

寒門の出であったが、殷礼らとともに顧邵から評価されてその友人となったため、名を知られるようになった(「顧雍伝」)。

孫河が烏程県令だった時に官吏として仕えた。孫河が将軍になると、その推薦で曲阿県丞に任命され、やがて長史に昇進し、優れた治績を挙げた。このことで同郡出身の陸遜卜静と並ぶ名声を得たという。

孫権車騎将軍になると、将軍府に招かれ主簿として仕えた。後に地方へ出て山陰県令となり、中央に戻った際に参軍校尉に昇進した。

黄武元年(222年)、呉に攻め寄せた魏の大軍を迎え撃つため、呂範賀斉らとともに洞口へ出陣し、曹休軍の侵攻を防いだ(洞口の戦い)。戦の最中、暴風で船のもやい網が切れてしまい、船が敵陣に流れ着いて捕らえられたり、船が沈没して溺死する者が出た。

他の無事だった船が転覆を恐れ、助けを求める者たちを戈矛で突き殺す中、吾粲と黄淵だけは危険を顧みずに救助した。吾粲と黄淵のおかげで助かった者は百人を越えたという。

その後、会稽太守となった。無位無官であった謝譚という人物を功曹として招いたが応じなかったため、応龍や鳳凰になぞらえて仕官を求めた。

志願兵を募って部隊を編成し、昭義中郎将に任命され、呂岱とともに山越を討伐した。その後、中央に戻って屯騎校尉・少府となった。

赤烏6年(243年)、孫和太子太傅であった闞沢薛綜が相次いで没したため(「闞沢伝」・「薛綜伝」)、吾粲は後任となった。しかし、孫和と弟の孫覇による後継者争い(いわゆる二宮事件)が発生すると、自身が孫和の後見人であったこともあり、その騒動に巻き込まれた。吾粲は孫権に嫡庶の分を説き、孫和の正統性を主張した。また、孫覇や孫覇派の楊竺を中央から遠ざけるよう進言した。さらに、吾粲は陸遜へ協力を求めたため、陸遜もそれに応じて孫権に諫言の手紙を送った。しかしこれらの行動は、かえって孫覇や楊竺らの反発を買い、逆に彼らから讒言されることとなった。

孫権は吾粲らの行動に憤り、陸遜に譴責の書状を送るとともに、吾粲を獄に下し処刑した(「陸遜伝」)。

陳寿は「困難な時勢の中、正義を守ろうとして身を滅ぼした。悲しいことである」と評している。

陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝