孫奐

孫奐

揚威将軍・江夏太守・沙羡侯
出生 興平6年(195年
揚州呉郡富春県
死去 嘉禾3年(234年
拼音 Sūn huàn
季明
主君 孫権
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孫 奐(そん かん)は、中国三国時代の武将。呉の宗室の一人。季明(きめい)。父は孫静。兄は孫暠孫瑜孫皎。弟は孫謙。子は孫承・孫壱・孫封・滕胤妻・呂拠妻。

生涯

建安24年(219年)、兄の孫皎が死去したため、その軍勢を引き継ぎ、揚武中郎将江夏太守に任命された。孫奐は行動がおっとりした人物であったが、兄から受け継いだ部下である劉靖・李允・呉碩・張梁(呉の人物)の他、閭挙という人物を礼遇し採り立て、それぞれに仕事を与え、手際良く職務をこなした。

黄武5年(226年)、孫権が魏の江夏の石陽を攻めたとき、孫奐もその地の太守であったため従軍した。孫権が江夏郡の石陽を包囲したが、曹叡が援軍に荀禹を派遣して孫権の後方を撹乱したこともあり、孫権は二十余日で包囲を解き、殿軍を潘璋に任せて撤退する。夜間に撤退の途中で混乱が生じ、文聘は城に出て潘璋を追撃させた時、孫奐は鮮于丹に魏軍の淮水退路を断たせ、自らも呉碩・張梁の兵を率いて先鋒となり、江夏郡の高城を落として敵将三名を捕らえる戦果を挙げた。孫権に召されて帰還し、孫権がそれまで孫奐のことを利発さが欠ける人物と評価していたが、堂々と軍を凱旋させる姿を見てその評価を改めたという。まもなく揚威将軍・沙羡侯となっている。

黄武7年(228年)の石亭の戦いでは、周魴が偽降の調略のため魏の曹休に宛てた手紙の中で、孫奐が孫権から安陸城の修築と兵糧の搬送を命令されたとあるが、実際にこうした命令があったがどうかは不明である[1]

兄同様に学問を好み、部曲の子弟達に命じて学問を受けさせ、それらの子弟の中から朝廷に仕える人材を多く出したという。

嘉禾3年(234年)、40歳で亡くなった。爵位は子の孫承が継いだ。

出典

  1. ^ 『三国志』周魴伝
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝