呂布

呂布
清朝期の呂布の版画
清朝期の呂布の版画
後漢
左将軍・温侯
出生 不詳
并州五原郡九原県(内モンゴル自治区包頭市
死去 建安3年12月24日癸酉199年2月7日
徐州下邳郡
拼音 Lǚ Bù
奉先
別名 飛将
主君 丁原董卓→献帝→袁術袁紹張楊→独立勢力
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呂 布(りょ ふ、生年不詳 - 建安3年12月24日癸酉199年2月7日[1])は、中国後漢末期の武将・群雄。奉先并州五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区包頭市)の人。『三国志』巻七 呂布伝[2]、『後漢書』列伝六十五 呂布伝[3] などに記録がある。

剛勇をもって知られる。最初に丁原に仕えたが彼を殺害し、後に董卓に仕えるが、やはり殺害して放浪した。最期は曹操との戦いに敗れ、処刑された。

事跡

董卓政権下

呂布、丁原を弑す(頤和園三国志演義回廊画)

元々家柄の低かった呂布だった[要出典]が、勇猛さと武芸の腕前を買われ、并州刺史の丁原に仕えた。丁原は、呂布を主簿(会計係)に任じて非常に寵愛した。

中平6年(189年)、霊帝が崩御して宦官十常侍外戚何進とが政争を繰り広げると、丁原は何進と宦官殺害を共謀し、執金吾に任命された。しかしまもなく何進は十常侍に殺害され、十常侍もまた袁紹らに誅殺された。

何進死後、洛陽に入城した董卓は叛乱を計画し、丁原の軍勢を奪おうと考えた。そこで丁原の信頼厚い呂布を誘って、これを殺害させることに成功した。これにより董卓は呂布を非常に重用し、父子の契りを結んだ。呂布は騎都尉中郎将に累進して、都亭侯に封じられた。

呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢李広になぞらえて飛将と呼ばれた。絶大な権力を握った董卓は、傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買っていたため、傍らに呂布を置いて身辺を警護させた。

翌2年(191年)、董卓は孫堅との戦いに際し、胡軫・呂布らを討伐軍として派遣した。しかし呂布は胡軫に偽情報を与える等相いれず敗北(陽人の戦い)。この戦い以降、董卓軍の形勢不利が固まったため、董卓は洛陽を放棄し、長安まで退いた。その際呂布はまた洛陽で孫堅と戦ったが、敗れたという記述もある[4]

董卓暗殺と三日天下

董卓が実権を掌握し専横を極めると、司徒王允は、士孫瑞黄琬[注釈 1] とともに董卓暗殺を企て、呂布を仲間に引き込んだ。初平3年(192年)4月、董卓が皇帝の病の快癒を祝うため宮門に入ろうとすると、詔書を懐に忍ばせた呂布は李粛等十余名を偽衛子として待機させ、董卓の入門を阻んだ。驚いた董卓が呂布を呼ぶものの、呂布は詔であることを告げ董卓を殺害、その三族を皆殺しにし、董卓派は皆処刑された[5]

呂布は董卓と父子の関係を結んでおり、常に董卓の傍らにあって護衛をしていたが、些細なことで腹を立てた董卓に手戟を投げつけられたことがあり、密かに恨んでいた。また、董卓の侍女[注釈 2] と密通していたため、それが露顕することを恐れて不安に思っていた。ある時呂布が交友のある王允を訪ね、董卓に殺されかけたことを話すと、王允は呂布に董卓暗殺計画を打ち明けた。呂布は最初董卓とは父子であると固辞したものの、王允に説得され暗殺に加わった[6] と史書は記す。また、董卓が長安に遷ったことで自分の権勢が崩れることを恐れたことが理由とする論文がある[7]

董卓殺害後『後漢書呂布伝』によると、王允と呂布は共に朝政を掌握し、呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、仮節を与えられた(正史三国志.魏書呂布伝では、奮威將軍.假節.儀比三司.進封溫侯。とある)。しかしその後呂布が涼州軍を憎んだために董卓の軍事力の基礎であった郭汜李傕ら涼州の軍勢が長安を襲撃してくると、呂布は郭汜を一騎討ちで破る[8] も防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。呂布と王允の統治はそれなりに良かったようである[9]。なお、呂布と涼州軍の関係については異説があり、『後漢書』「王允伝」では呂布はむしろ涼州軍赦免を提案したとされる[10]

呂布は王允を助けようとしたが叶わず[11]、董卓の首を馬の鞍にぶら下げ、数百騎を率いて武関から逃亡した[12]。董卓の死から60日後のことであったという。

中原を彷徨う

呂布は、董卓を討ったことを袁術が感謝しているだろうと思い、彼を頼ったが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉魏越が指揮する数十騎が1日に3, 4度も突撃して次々に張燕軍を討ち取ったため、数十日後に遂に敗れ、以後黒山賊は離散した[13]。この戦いの後愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという[14]。その後袁紹に兵力の補充を要求したが袁紹はそれに応えず、腹いせに呂布の将兵は略奪を行なった。ついに袁紹の忌むところとなり、袁紹は刺客を送るが呂布の奇策により失敗した[15]。その報せを聞いた袁紹は恐れをなし、城門を閉じて守りを固めたという[16]。なお略奪事件については臧洪が「呂布は軍兵の貸与を申し出ただけであり、死刑に値する人物であっただろうか」と、陳琳への返書で述べている[17]

『後漢書』呂布伝では受け入れられた後、配下の略奪によって呂布が後難を恐れ袁術領を抜けたとする。

冀州を出ると張邈のもとに立ち寄り、別れの際手を取り合って共に誓いをたてた。その次は河内の張楊を頼る。張楊は、長安の意向を受け諸将と呂布を殺そうとした。しかし呂布が察知し張楊に自らの捕縛を教唆したため、張楊は表向きは李傕・郭汜に従う振りをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。そのことを知った長安では、呂布の気持ちをなだめるため、呂布を潁川太守に任命したという。

『後漢書』呂布伝では『三国志』と異なり、袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊の順に身を寄せたとする[18]

兗州を襲撃する呂布(三国志演義)

張邈は以前、袁紹と口論になり、袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたことがあった。しかし曹操が袁紹に反論したので、張邈は曹操に恩義を感じ親友となったが、呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていたことから、袁紹の命で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという。興平元年(194年)、曹操が徐州陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超と陳宮は呂布との兗州共有を張邈に提案し、彼を迎え入れ兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。

張邈に迎え入れられた呂布は濮陽を奇襲し、夏侯惇捕虜とするも、韓浩によって奪還された[19]。また呂布が濮陽を落とすと多くの城が投降した。しかし荀彧程昱棗祗薛悌等の守る鄄城・東阿・范だけは落とせなかった。

曹操が徐州から戻って来ると、呂布は濮陽に籠城する戦略[20] を取り、曹操が攻撃してくると呂布はこれを連破[21][22] した。しかし旱魃蝗害によって兵糧が不足し、呂布は曹操に止めを刺し損ね山陽に駐屯した。

その後、呂布は1年以上に亘り激戦を繰り広げたが、兗州連合軍に太刀打ちできず[23] 袁紹軍の協力を受けた[24][25] 1千未満の曹操軍に、1万余りを率いて向かった鉅野で敗北した。呂布は夜中に逃れ、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と、袁術に援軍を求めて寿春に向かっていた張邈と別れ、徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。曹操最大の危機はこれで終わった[26]

徐州を支配

呂布は徐州の劉備の元を訪れると、妻の寝台に劉備を座らせて自身の妻に挨拶をさせ、酒を酌み交わし弟と呼んだ。劉備は呂布の言葉に一貫性がないのを見てとり、内心彼を不愉快に思った[27]

まもなく徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、その隙を突いて呂布は劉備の本拠下邳を奪い取った[28][29]。行き場をなくした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史にし自らは徐州刺史を名乗った。ちなみに『後漢書』呂布伝では袁術の依頼で徐州を攻め、その後徐州牧を名乗ったとされる[30]。その後袁術は6月に陳宮等と共謀して呂布軍を転覆しようとしたが、呂布がすんでのところで逃れたため失敗した[31]。袁術は呂布が自らに害をなすことを恐れ、自らの息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせることを提案した。呂布もそれを承認したという[32]。なお『後漢書』には陳宮謀反の記述はない。

呂布、袁門の陣中で戟を射る(轅門射戟)

その後、袁術が紀霊らに歩・騎兵あわせて3万の指揮を任せ、再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた。呂布は袁術と泰山諸将(臧覇ら)による包囲を警戒し、呂布軍の諸将の諌めを遮って歩・騎兵1千人余りで劉備・袁術を調停。「俺は争いを好まぬ、100歩先のあの戟に俺が矢を射て見事当たったならば双方兵を引かれよ」と言い、陣中で戟を地面に刺してから矢を射て見事命中させ、両軍を撤退させた。

その後、呂布は1万の兵を集めた劉備を攻め、小沛を陥落させた。劉備は逃走し、曹操を頼った[33]

呂布は徐州にいた頃、河東にいた献帝から救援の書状を賜った。呂布には兵糧がないので救援を送れなかったがかわりに使者を送った。朝廷は呂布を使持節・平東将軍・徐州牧・平陶侯に任命した[34]

最期

その後、袁術は韓胤を使者として送り呂布に婚姻を持ちかけたが、陳珪に諫言された呂布は袁術が最初自分を迎えなかったのを恨んで袁術の使者を捕える[35] と、書簡と共に曹操に送った。この時呂布が徐州牧に就任したという異説がある[36][37]。その後使者を斬られて怒った袁術は楊奉らと同盟し、張勲に数万の大軍の指揮を委ね、連携して呂布を攻撃した。この時『後漢書』呂布伝では呂布は3000余りの兵しか持っていなかった[38] ために陳珪を責めたが、彼の戦略を受けた呂布は楊奉・韓暹を物資で釣る戦術に打って出て袁術から離反させ、張勲軍のほとんどを殲滅した[39][注釈 3]。また『三国志』呉志「孫討逆伝」が引く『江表伝』[40] には呂布が朝廷に対し孫策の抱き込みを提案し、成功したという記録もある。袁術はこの大敗と、後の曹操戦での敗北によって勢力を大きく損失した[41]

一方『後漢書』呂布伝では、呂布は袁術をもとから怨んでいたために使者を捕えたとする[42]

この後、呂布は莒城の蕭建を手紙で投降させたが[43]、独立勢力の臧覇によって莒城が落された。それを受けた呂布は高順の諌めも聞かず臧覇を攻撃したが攻め落とせず、引き返した。また高順は常に、呂布が短気で気まぐれなので、周囲の言うことを聞いていつも口にする誤りを改めるようにと諌めていたが、呂布はその意見を採用せず[44]、あまつさえ陳宮らの反乱後高順の兵を奪い取り縁戚の魏続に与えた。そして戦争では高順に魏続の配下の軍を指揮させたが、高順は終生恨みを抱かなかったという[45]。ちなみに、『後漢書』呂布伝には手紙のやり取りはない。

建安3年(198年 - 199年)呂布はまた袁術と通じ、部下の高順を派遣して小沛の劉備を陥落させ、臧覇らが呂布に従った[46][47]。そこで曹操は自ら大軍の指揮を執って徐州に攻め込んだ。10月曹操軍が彭城を落とすと陳宮は献策したが呂布は聞かず[48]、しばしば下邳に到着した曹操と戦うも皆大敗し、下邳に籠城した[49]。ちなみに、『後漢書』呂布伝には下邳での野戦が描かれていない。包囲して後、下邳を攻め落とせず疲弊した軍[50] を憂え撤退を計る曹操に対し、曹操軍の荀攸郭嘉は水計を考案し実行に移されると[51][52]侯成らは陳宮たちを捕えて呂布を裏切り、呂布は後に部下と投降。この時呂布は部下に自分を売って曹操に降るよう命じたが、部下たちは遂行できなかったともいう[53]

投降した呂布は縛られて曹操の前に連行された。『英雄記』によると、曹操は呂布が家臣の妻と不正な関係を持とうとし、そこで家臣に裏切られたと呂布に指摘した。呂布は黙ったままだった。呂布は「縛り方がきつすぎる。少し緩めてくれ」と言うと、曹操は「虎を縛るのにきつくせぬわけにはいかぬ」と答えた。呂布が「これで天下は定まったな。貴殿が歩兵の指揮を執り、俺が騎兵の指揮を執れば、天下の平定なぞ簡単なことよ」と語ると、曹操は顔に疑惑の色を浮かべた。劉備が進み出て「呂布が過去に丁原・董卓を裏切ったことをお忘れか」と曹操を諫めると、曹操もそれに頷いた。呂布は「この大耳野郎(劉備)[54]こそが一番信用ならん者だ」と主張した[55]が、縛り首にされた。司馬彪の『九州春秋』によると、呂布は曹操の賓客になっていた劉備に命乞いの口利きを頼んだが、曹操はこれを制し王必の勧めに従って呂布を処刑したという。同時に曹操による助命を拒んだ重臣の陳宮・高順らも縛り首にされた。呂布・陳宮・高順らの首はに送られ、晒し首にされたが、後に埋葬されたという。

評価

陳宮は呂布は壮士であり、善く戦って前に(敵は)ないと言っている[56]。一方で、陳登は呂布が勇のみで計りごとがなく、去就が軽はずみであると評している[57]

陳寿は「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾で、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中にあった。彼の如き人物が歴史上破滅しなかった例はない[58]」と評する。

北宋代の軍事学者何去非(中国語版)は、自身が「用兵の第一人者」と評価した曹操[59] に対する呂布の戦ぶりを「兗州では転戦するに無敵であった」とし[60]北宋以前における特筆すべき武人の一人という評価を下す。

代の張溥(中国語版)は呂布を漢末第一の将軍とし、文人の中で第一とされた孔融と共に、周公旦に比せられた曹操[61] が殺すに余りあったとする[62]

小説『三国志演義』では、張飛は「三姓家奴(後のドラマでの吹き替えでは「三つの家の奴隷(字幕では三姓の奴隷)」)」と皮肉っていたという。

河南商報は呂布を「後漢を再建した戦神」とする[63]

渡邉義浩は、個人の武勇がものを言う騎兵指揮官としては、随一の能力を持っていたとしている[64]

フィクションや民間伝承

呂布戯貂蝉

中国では古くから雑劇京劇や、『三国志平話』・『三国志演義』などで描写されてきた。ある神話では呂布の方天画戟が龍の化身であるとする。また、民間伝承では呂布は呂良と黄氏という親子の第四子として生まれたとされ、その時黄氏は虎に襲われる夢を見、呂布が生まれた瞬間山が崩壊。呂布の二つの目は精悍で、自ら臍の緒を切って立ち上がったという。また、雑劇や京劇では美男子、才子として描かれ、貂蝉との悲恋を演ずることも多い[65]

三国志演義

三英戦呂布

身長は一赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、煌びやかな鎧をまとう、豪壮な武者として描かれている。猛々しく華やかだが、欲望に弱く、董卓と対立した義父の丁原を赤兎馬欲しさに殺すなど人間的な面も際立たせ、司徒王允の連環計の餌食ともなり、『演義』を彩る大きな個性として際立った存在感を持つ。また、「空前絶後[66]」と称される彼の驍勇振りを表す描写としては、ただ一騎で数万を蹂躙し、張飛一騎打ちを演じ、さらに関羽・劉備が加わってもなお持ちこたえる「三英戦呂布」が描かれた虎牢関の戦いが特に有名である[注釈 4]

また、籠城中に自分だけ豪勢な食事をし、酒ばかり飲んでいて部下を殴りつけたり、怒鳴り散らしているため人心を失う。そこで、自分を戒めるために禁酒令を出すが、部下の侯成が善意から猪料理と酒を薦めたのに、自分を処刑する口実と解釈して腹を立て、百叩きの刑としている。それが恨みを買う一因となって、酒に酔って寝ていたところを侯成・宋憲・魏続に捕らえられてしまう。

陳宮・高順らが斬首された後、捕らえられて曹操に命乞いをするものの、劉備から「丁原や董卓らのことをお忘れですか」と言われる。これに激怒して呂布は「この大耳野郎が、陣門で戟を射て助けてやったことを忘れたか!」と口を極めて劉備を罵るが、同じく処刑のために連行されて来た張遼に「この匹夫め! もはや死あるのみ、今更何を恐れることがあろうか」と一喝され、処刑される。ただし濮陽で曹操の「なぜ仇でもない吾が州を襲うか」という問いに対し「誰が取ろうと漢の城は漢の城なのに、お前一人のものだと言うのか」と論破したり[67]、袁術と劉備の衝突の際は優れた見識を示し[68]、謀で戦争を防ぐ[69] 等、聡明さをうかがわせる面も見られ、史実と同様に劉備の妻子を2度も保護したり[70]、最後の戦いで陳宮よりも妻の意見を重視する[71] など、情の厚さ故にチャンスを逃した、自分の心に素直な少年の如き英雄[72] としても描写される。

正室の厳氏との間に一人の娘を儲けた。袁術の子との婚約を交わされた。また、寿春の袁術の下へ呂布自らが娘を担いで赴くも、途中で劉備軍に矢を射掛けられ引き返すという場面などが付け加えられ脚色されている[注釈 5]

近現代の作品

中国史上でも項羽と共に、特に武力に優れた人物とされることが多い[73][74]。『BB戦士三国伝』『蒼天航路』などでは強者との戦いに魂を踊らせる武人としての側面が強調され、劣勢、敗北後も命乞いを一切せず矜恃を貫く人物として描かれている。

貂蝉をはじめとする女性関係に注目されることもあり、横山光輝の『三国志』など創作性の強い作品では、董卓を裏切った理由を貂蝉との密通であると断定的に語られることも多いが、その一方で北方謙三の『三国志』のように妻に忠実な人物として描かれることもある。

その他に呂布を主題とした作品には次のようなものがある。

映画
  • 『三国志 呂布 鬼神伝』(2020年、演:チャールズ・リン)
テレビドラマ
  • 『三国志 呂布と貂蝉』(2002年、演:ホアン・レイ)
小説
漫画
  • 『名探偵呂布』(著・長沢克泰うどん)- 知力1、武力100の名探偵呂布が助手の高順、陳宮と難事件解決に挑む短期連載作。
  • 終末のワルキューレ異聞 呂布奉先飛将伝』(作画・オノタケオ)- 『終末のワルキューレ』のスピンオフ作品。

ことわざ

曹操が呂布を殺す(曹操殺呂布)
後悔するの意味[75]
呂布が貂蝉と戯れる(呂布戯貂蝉)
英雄が女難に遭うの意味[76]

関連人物

親族
  • 魏氏(妻、魏続の同族)[77]呂布が下邳城に包囲されたとき、陳宮が提案した城の内と外で曹操を挟み撃ちする策に反対。
  • 娘(袁術の子の婚約者)
演義での妻
  • 厳氏(正室):史実の妻である魏氏の記述と共通する[78]
  • 曹豹の娘(側室、早世)
  • 貂蝉(妾)
所属配下
同盟関係
その他

脚注

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注釈

  1. ^ 陳寿の『魏書』董卓伝、呂布伝では黄琬の名は挙がっていない。
  2. ^ 三国志演義』の王允の養女貂蝉のモデルとする説もある。
  3. ^ 『後漢書』呂布伝ではこの時、袁術軍側の大将だった橋蕤を捕えていたという。
  4. ^ 渡邉義浩は自著『「三国志」武将34選』で虚構ではあるとしながらも、この戦いの描写に史実の呂布の強さが集約されているとする。『「三国志」武将34選』
  5. ^ この逸話をモチーフとして、ゲーム・漫画などでは呂布の娘が登場するケースがある。

出典

  1. ^ [1] 後漢書 孝献帝紀 第九「十二月癸酉,曹操撃呂布於徐州,斬之」より。西暦換算は 兩千年中西暦轉換 にて。西暦換算だと建安3年は198年1月26日から199年2月13日まであり、199年にずれ込む
  2. ^ ウィキソース出典 陳壽 (中国語), 三國志/卷07, ウィキソースより閲覧。 
  3. ^ 『後漢書』巻75 劉焉袁術呂布列傳”. 中國哲學書電子化計劃. 2010年7月31日閲覧。
  4. ^ 後漢書(2004)・董卓伝p.407「明年,孫堅收合散卒,進屯梁縣之陽人。卓遣將胡軫、呂布攻之,布與軫不相能,軍中自驚恐,士卒散亂。堅追撃之、軫・布敗走。卓遣將李傕詣堅求和、堅拒絕不受、進軍大谷、距洛九十里。卓自出與堅戰於諸陵墓閒、卓敗走、卻屯黽池、聚兵於陝。堅進洛陽宣陽城門、更撃呂布、布復破走」
  5. ^ 陳寿『魏書』董卓伝
  6. ^ 陳寿『魏書』呂布伝
  7. ^ 上谷浩一 『呂布叛逆考』
  8. ^ 渡邉(2013) p.73、出典は『英雄記』による三国志、後漢書呂布伝にこの記述はない。
  9. ^ 魏書II(1993)・賈詡伝注釈p.283「臣松之以爲傳稱「仁人之言、其利溥哉」然則不仁之言、理必反是。夫仁功難著、而亂源易成、是故有禍機一發而殃流百世者矣。當是時、元惡既梟、天地始開、致使厲階重結、大梗殷流、邦國遘殄悴之哀、黎民嬰周餘之酷、豈不由賈詡片言乎。詡之罪也、一何大哉。自古兆亂、未有如此之甚」
  10. ^ 後漢書(2004)・王允伝p.146「允初議赦卓部曲、呂布亦數勸之」
  11. ^ 後漢書(2004)・王允伝p.149「布駐馬青瑣門外。招允曰「公可以去乎」」
  12. ^ 後漢書p.604・呂布伝「乃將數百騎、以卓頭系馬鞍、走出武關」
  13. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.604「布常御良馬、號曰赤菟、能馳城飛塹、與其健將成廉、魏越等數十騎馳突燕陣、一日或至三四、皆斬首而出。連戰十餘日、遂破燕軍」
  14. ^ 魏書II(1993)・呂布伝p.12「曹瞞傳曰、時人語曰「人中有呂布、馬中有赤兔」」
  15. ^ 後漢書(2004) ・呂布伝p.604「布既恃其功、更請兵於紹、紹不許、而將士多暴橫、紹患之。布不自安、因求還洛陽。紹聽之、承制使領司隸校尉、遣壯士送布而陰使殺之。布疑其圖己、乃使人鼓箏於帳中、潛自遁出。夜中兵起、而布已亡」
  16. ^ 魏書II(1993)・呂布伝p.12「英雄記曰、布自以有功於袁氏、輕傲紹下諸將、以為擅相署置、不足貴也。布求還洛、紹假布領司隷校尉。外言當遣、內欲殺布。明日當發、紹遣甲士三十人、辭以送布。布使止於帳側、偽使人於帳中鼓箏。紹兵臥、布無何出帳去、而兵不覺。夜半兵起、亂斫布牀被、謂為已死。明日、紹訊問、知布尚在、乃閉城門。布遂引去」
  17. ^ 魏書II(1993)・臧洪伝p.47「呂奉先討卓來奔、請兵不獲、告去何罪。復見斫刺、濱于死亡。劉子璜奉使踰時、辭不獲命、畏威懷親、以詐求歸、可謂有志忠孝、無損霸道者也。然輒僵斃麾下、不蒙虧除」
  18. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.604「奔南陽。袁術待之甚厚。布自恃殺卓,有德袁氏,遂恣兵抄掠。術患之。布不安,復去從張楊於河內。時李傕等購募求布急,楊下諸將皆欲圖之。布懼、謂楊曰「與卿州里、今見殺、其功未必多。不如生賣布、可大得傕等爵寵」楊以為然。有頃、布得走投袁紹」
  19. ^ 魏書II(1993)・夏侯惇伝 p.138「張邈叛迎呂布、太祖家在鄄城、惇輕軍往赴、適與布會、交戰。布退還、遂入濮陽、襲得惇軍輜重。遣將偽降、共執持惇、責以寶貨、惇軍中震恐。惇將韓浩乃勒兵屯惇營門、召軍吏諸將、皆案甲當部不得動、諸營乃定」
  20. ^ 三軍(2012) p.69
  21. ^ 魏書I(1992) ・武帝紀p.30「布出兵戰。先以騎犯青州兵。青州兵奔、太祖陳亂。馳突火出、墜馬、燒左手掌。司馬樓異、扶太祖上馬、遂引去」
  22. ^ 魏書III(1993)・程昱伝p.15「太祖與呂布戰于濮陽、數不利」
  23. ^ 後漢書(2004)・袁紹伝p.537「謝承後漢書曰、操囲呂布於濮陽、為布所破、投紹。紹哀之、乃給兵五千人、還取兗州」
  24. ^ 渡邉(2000) p.70
  25. ^ 渡邉(2013) p.56
  26. ^ 渡邉(2014) p.20
  27. ^ 魏書II(1993)・張邈伝p.15「英雄記曰、布見備、甚敬之、謂備曰「我與卿同邊地人也。布見關東起兵、欲誅董卓。布殺卓東出、關東諸將無安布者、皆欲殺布耳」請備於帳中坐婦牀上、令婦向拜、酌酒飲食、名備為弟。備見布語言無常、外然之而內不說」
  28. ^ 魏書II(1993)・呂布伝 p.17「備東撃術、布襲取下邳」
  29. ^ 蜀書(1993)・先主伝p.30「袁術來攻先主。先主拒之於盱眙、淮陰。曹公表先主、爲鎭東將軍、封宜城亭侯。是歲建安元年也。先主與術、相持經月、呂布乘虚襲下邳」
  30. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.609「時劉備領徐州、居下邳、與袁術相拒於淮上。術欲引布撃備、乃與布書曰「術舉兵詣闕、未能屠裂董卓。將軍誅卓、為術報恥、功一也。昔金元休南至封丘、為曹操所敗。將軍伐之、令術復明目於遐邇、功二也。術生年以來、不聞天下有劉備、備乃舉兵與術對戰。憑將軍威靈、得以破備、功三也。將軍有三大功在術、術雖不敏、奉以死生。將軍連年攻戰、軍糧苦少、今送米二十萬斛。非唯此止、當駱驛復致。凡所短長亦唯命」布得書大悦、即勒兵襲下邳、獲備妻子」
  31. ^ 魏書II(1993)・呂布伝p.21「英雄記曰、建安元年六月夜半時、布將河内郝萌反、將兵入布所治下邳府、詣廳事閤外、同聲大呼攻閤、閤堅不得入。布不知反者爲誰、直牽婦、科頭袒衣、相將從溷上排壁出、詣都督高順營、直排順門入。順問「將軍有所隱不」布言「河内兒聲」順言「此郝萌也」順卽嚴兵入府、弓弩並射萌衆。萌衆亂走、天明還故營。萌將曹性反萌、與對戰、萌刺傷性、性斫萌一臂。順斫萌首、牀輿性、送詣布。布問性、言「萌受袁術謀」「謀者悉誰」性言「陳宮同謀」時宮在坐上、面赤、傍人悉覺之。布以宮大將、不問也。性言「萌常以此問、性言呂將軍大將有神、不可擊也、不意萌狂惑不止」布謂性曰「卿健兒也」善養視之。創愈、使安撫萌故營、領其衆」
  32. ^ 後漢書(2004)・呂布伝 p.609「布自號徐州牧。術懼布為己害,為子求婚,布復許之」
  33. ^ 蜀書(1993)・先主伝p.31「先主還小沛、復、合兵得萬餘人。呂布惡之、自出兵攻先主、先主敗走歸曹公」
  34. ^ 魏書II(1993)・呂布伝p.23「英雄記曰、初、天子在河東、有手筆版書召布來迎。布軍無畜積、不能自致、遣使上書。朝廷以布爲平東將軍、封平陶侯。使人於山陽界亡失文字、太祖又手書厚加慰勞布、説起迎天子、當平定天下意、並詔書購捕公孫瓚、袁術、韓暹、楊奉等。布大喜、復遣使上書於天子曰「臣本當迎大駕、知曹操忠孝、奉迎都許。臣前與操交兵、今操保傅陛下、臣爲外將、欲以兵自隨、恐有嫌疑、是以待罪徐州、進退未敢自寧」答太祖曰「布獲罪之人、分爲誅首、手命慰勞、厚見褒獎。重見購捕袁術等詔書、布當以命爲效」太祖更遣奉車都尉王則爲使者、齎詔書、又封平東將軍印綬來拜布。太祖又手書與布曰「山陽屯送將軍所失大封、國家無好金、孤自取家好金更相爲作印、國家無紫綬、自取所帶紫綬以籍心。將軍所使不良。袁術稱天子、將軍止之、而使不通章。朝廷信將軍、使復重上、以相明忠誠」布乃遣登奉章謝恩、並以一好綬答太祖」
  35. ^ 魏書II(1993)・呂布伝p.22「布亦怨術初不己受也。女已在塗、追還絶婚。械送韓胤、梟首許市」
  36. ^ 呉書I(1993) ・孫討逆伝p.48「江表伝曰、建安二年夏、漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰「董卓逆亂、凶國害民。先將軍堅念在平討、雅意未遂、厥美著聞。策遵善道、求福不回。今以策爲騎都尉、襲爵烏程侯、領會稽太守」又詔敕曰「故左將軍袁術不顧朝恩、坐創凶逆、造合嘘偽、欲因兵亂、詭詐百姓、[始]聞其言以爲不然。定得使持節平東將軍領徐州牧温侯布上術所造惑衆妖妄、知術鴟梟之性、遂其無道、修治王宮、署置公卿、郊天祀地、殘民害物、爲禍深酷。布前後上策乃心本朝、欲還討術、爲國效節、乞加顯異。夫縣賞俟功、惟勤是與、故便寵授、承襲前邑、重以大郡、榮耀兼至、是策輸力竭命之秋也。其亟與布及行呉郡太守安東將軍陳瑀戮力一心、同時赴討」策自以統領兵馬、但以騎都尉領郡爲輕、欲得將軍號、乃使人諷誧、誧便承制假策明漢將軍」
  37. ^ 呉書II(1993)・張紘伝p.10「呉書曰:紘與張昭並與參謀、常令一人居守、一人從征討、後呂布襲取徐州、因爲之牧、不欲令紘與策從事」(1993)
  38. ^ 後漢書(2004) ・呂布伝p.614「袁術怒布殺韓胤、遣其大將張勳・橋蕤等與韓暹・楊奉連執、步騎數萬、七道攻布。布時兵有三千、馬四百匹、懼其不敵、謂陳珪曰「今致術軍、卿之由也、為之柰何」」
  39. ^ 後漢書(2004)・呂布伝 p.614「布用珪策、與暹・奉書曰「二將軍親拔大駕、而布手殺董卓、俱立功名、當垂竹帛。今袁術造逆、宜共誅討、柰何與賊還來伐布。可因今者同力破術、為國除害、建功天下、此時不可失也」又許破術兵、悉以軍資與之。暹・奉大喜、遂共撃勳等於下邳、大破之、生禽橋蕤、餘衆潰走、其所殺傷堕水死者殆盡」
  40. ^ 呉書I(1993)・孫討逆伝p.48「江表伝曰、建安二年夏、漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰「董卓逆亂、凶國害民。先將軍堅念在平討、雅意未遂、厥美著聞。策遵善道、求福不回。今以策爲騎都尉、襲爵烏程侯、領會稽太守」又詔敕曰「故左將軍袁術不顧朝恩、坐創凶逆、造合嘘偽、欲因兵亂、詭詐百姓、[始]聞其言以爲不然。定得使持節平東將軍領徐州牧温侯布上術所造惑衆妖妄、知術鴟梟之性、遂其無道、修治王宮、署置公卿、郊天祀地、殘民害物、爲禍深酷。布前後上策乃心本朝、欲還討術、爲國效節、乞加顯異。夫縣賞俟功、惟勤是與、故便寵授、承襲前邑、重以大郡、榮耀兼至、是策輸力竭命之秋也。其亟與布及行呉郡太守安東將軍陳瑀戮力一心、同時赴討」策自以統領兵馬、但以騎都尉領郡爲輕、欲得將軍號、乃使人諷誧、誧便承制假策明漢將軍。
  41. ^ 魏書I(1992)・袁術伝p.504「術、前爲呂布所破、後爲太祖所敗。奔其部曲雷薄陳蘭于潜山」
  42. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.612「布亦素怨術,而女已在塗,乃追還絶婚,執胤送許,曹操殺之」
  43. ^ 魏書II(1993)・呂布伝p.26「英雄記曰:時有東海蕭建爲琅邪相、治莒、保城自守、不與布通。布與建書曰「天下舉兵、本以誅董卓耳。布殺卓、來詣關東、欲求兵西迎大駕、光復洛京、諸將自還相攻、莫肯念國。布、五原人也、去徐州五千餘里、乃在天西北角、今不來共爭天東南之地。莒與下邳相去不遠、宜當共通。君如自遂以爲郡郡作帝、縣縣自王也。昔樂毅攻齊、呼吸下齊七十餘城、唯莒、卽墨二城不下、所以然者、中有田單故也。布雖非樂毅、君亦非田單、可取布書與智者詳共議之」建得書、卽遣主簿齎牋上禮、貢良馬五匹」
  44. ^ 渡邉(2013) p.118
  45. ^ 魏書II(1993)・呂布伝p.33「英雄記曰:順每諫布、言「凡破家亡國、非無忠臣明智者也、但患不見用耳。將軍舉動、不肯詳思、輒喜言誤、誤不可數也」布知其忠、然不能用。布從郝萌反後、更疏順。以魏續有外內之親、悉奪順所將兵以與續。及當攻戰、故令順將續所領兵、順亦終無恨意」
  46. ^ 魏書II(1993)・荀攸伝p.272「魏書曰:議者云表、繡在後而還襲呂布、其危必也。攸以爲表、繡新破、勢不敢動。布驍猛、又恃袁術、若縱橫淮、泗間、豪傑必應之。今乘其初叛、衆心未一、往可破也。太祖曰「善」比行、布以敗劉備、而臧覇等應之」
  47. ^ 魏書I(1992)・武帝紀p.38「布之破劉備也、覇等悉從布」
  48. ^ 魏書II(1993)・呂布伝p.29「献帝春秋曰:太祖軍至彭城。陳宮謂布「宜逆擊之、以逸擊勞、無不克也」布曰「不如待其來攻、蹙著泗水中」及太祖軍攻之急、布于白門樓上謂軍士曰「卿曹無相困、我(自首當)[當自首]明公」陳宮曰「逆賊曹操、何等明公。今日降之、若卵投石、豈可得全也」」
  49. ^ 魏書I(1992)・武帝紀p.38「九月公東征布。冬十月屠彭城、獲其相侯諧。進至下邳、布自將騎逆撃。大破之、獲其驍將成廉。追至城下」
  50. ^ 魏書I(1992)・武帝紀p.38「時公連戰、士卒罷、欲還」
  51. ^ 魏書II(1993)・荀攸伝p.27「攸與郭嘉、説曰「呂布、勇而無謀。今三戰皆北、其鋭気衰矣。三軍以將爲主、主衰則軍無奮意。夫陳宮有智而遲。今及布氣之未復宮謀之未定、進急攻之、布可拔也」乃引沂泗、灌城。城潰、生禽布」
  52. ^ 魏書III(1993)・郭嘉伝p.27「征呂布、三戰破之。布退固守。時士卒疲倦、太祖欲引軍還。嘉説太祖急攻之、遂禽布」
  53. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.620「布與麾下登白門樓。兵圍之急,令左右取其首詣操。左右不忍,乃下降」
  54. ^ 魏書においては大耳と言う言葉は書かれていない。ウィキソース出典 三國志 魏書·呂布臧洪傳 (中国語), 三國志/卷07#張邈, ウィキソースより閲覧。  - 布與其麾下登白門樓。兵圍急,乃下降。遂生縛布,布曰:「縛太急,小緩之。」太祖曰:「縛虎不得不急也。」布請曰:「明公所患不過於布,今已服矣,天下不足憂。明公將步,令布將騎,則天下不足定也。」太祖有疑色。劉備進曰:「明公不見布之事丁建陽及董太師乎!」太祖頷之。布因指備曰:「是兒最叵信者。」
  55. ^ ウィキソース出典 英雄記 (中国語), 英雄記#呂布, ウィキソースより閲覧。  - 曹公擒呂布。布顧劉備曰:「玄德,卿為上坐客,我為降虜,繩縛我急,獨不可一言耶?」操曰:「縛虎不得不急。」曹公欲緩之,備曰:「不可。公不見布事丁建陽、董太師乎?」操憾之。布目備曰:「大耳兒最叵信。」
  56. ^ 魏書張邈伝 呂布壯士、善戰無前
  57. ^ 魏書呂布伝 布勇而無計輕於去就
  58. ^ 魏書II(1993)・呂布伝p.54評曰:「呂布有虓虎之勇、而無英奇之略。輕狡反覆、唯利是視。自古及今、未有若此不夷滅也」
  59. ^ 『何博士備論』「言兵無若孫武,用兵無若韓信、曹公」
  60. ^ 『何博士備論』「呂布驍勇,転闘無前而争兗州」
  61. ^ 『漢魏六朝百三家集 魏武帝集』「孟徳御軍三十余年,手不舍書,兼草書並崔張,音楽比桓蔡,囲棋埒王郭,復好養性,解方薬,周公所謂多材多芸,孟徳誠有之」
  62. ^ 『漢魏六朝百三家集 魏武帝集』「漢末名人,文有孔融,武有呂布,孟德実兼其長。此両人不死,殺孟德有余」
  63. ^ 『"三國第一猛將"呂布因出身受詬病 被群雄合力縊死』
  64. ^ 『『三国志を抱く』マニア必見の秘話満載――“三国志”の真実についてプロ中のプロに訊く!(その2)』
  65. ^ 渡邉(2014) p.68
  66. ^ 『馬中赤兔人中呂布:挙世無双的戦神』
  67. ^ 陳仁錫(中国語版)鐘惺(中国語版)に仮託した『鍾伯敬先生批評三国志』第十一回「呂布亦能」
  68. ^ 読本(2014)p.108~109
  69. ^ 『三国志 草莽の巻 花嫁』
  70. ^ 読本(2014)p.118~119
  71. ^ 読本(2014)p.127
  72. ^ 読本(2014)p.144
  73. ^ 『作品について|項羽と劉邦』
  74. ^ 『《三國》中視專題』公式サイトによれば「武功天下第一」とされる。詳細は「角色介紹」の「東漢末年人物」参照。
  75. ^ 『曹操殺呂布--悔之莫及』
  76. ^ 『呂布戯貂蝉』
  77. ^ 『三国志集解』何焯「然則布妻乃魏氏也」
  78. ^ 渡邉義浩・仙石知子『「三国志」の女たち』山川出版社、2010年6月5日、204頁。 

参考文献

正史

  • 後漢書』列伝第六十五 呂布伝
  • 『三国志』巻七 呂布伝

参考資料

  • 『正史 三国志』陳寿裴松之注、今鷹真井波律子小南一郎訳、筑摩書房ちくま学芸文庫 全8巻)、1992年 - 1993年
    • ISBN 4-480-08041-4 (1巻)魏書I
    • ISBN 4-480-08042-2 (2巻)魏書II
    • ISBN 4-480-08043-0 (3巻)魏書III
    • ISBN 4-480-08045-7 (5巻)
    • ISBN 4-480-08046-5 (6巻)呉書I
    • ISBN 4-480-08088-0 (7巻)呉書II
  • 『後漢書』范曄、吉川忠夫訓注、岩波書店、2001年 - 2005年、別冊2007年
    • 後漢書 列伝6 第8冊 ISBN 400-008868-8
  • ISBN 4-480-03603-2『三国志 きらめく群像』高島俊男、ちくま文庫、2000年
  • ISBN 4-816-32926-9『図解雑学 三国志』渡邉義浩、ナツメ社、2000年
  • ISBN 978-4-06-258532-3『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』渡邉義浩、講談社選書メチエ、2012年
  • ISBN 978-4-41-813233-1『ビジュアル三国志3000人 : 三国の覇者・軍師から時代を超えた三国志ゆかりの人物まで』渡邉義浩、世界文化社、2013年
  • ISBN 978-7-50-863523-1『中国歴代戦争史』三軍大学、中信出版社、2012年
  • ISBN 978-4861908798『図解 三国志 群雄勢力マップ』満田剛、有限会社バウンド、2009年
  • ISBN 978-4003201213『完訳 三国志<1>』羅貫中、小川環樹・金田純一郎訳、岩波文庫、1988年
  • ISBN 978-4101154503『三国志ナビ』渡邉義浩、新潮文庫、2014年
  • ISBN 978-4585290780『武将で読む 三国志演義読本』後藤裕也、 小林瑞恵、 高橋康浩、中川諭、勉誠出版、2014年

外部リンク

  • 『神武将の専属武器 第一弾』 - 呂布関連で言い伝えられる神話の一つ。
  • 『"三國第一猛將"呂布因出身受詬病 被群雄合力縊死』 - 呂布の民間伝承。
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝