曹沖

曹沖
出生 建安元年(196年
死去 建安13年(208年[1][2]
倉舒
諡号 鄧哀王
曹操
テンプレートを表示

曹沖(そう ちゅう、196年 - 208年[1][2])は、中国後漢末期の人物。字は倉舒(そうじょ)[3]。父は曹操。同母弟は曹拠曹宇。異母兄に曹昂曹丕曹彰曹植曹彪

生涯

幼少の頃から学問好きで、聡明な上に心優しかったため家臣からの信望も厚く、将来を嘱望されていた。曹操もその才を溺愛し、一時は嫡子曹丕よりも、曹沖を後継者にしようと考えていたほどであった[4]。しかし曹沖はわずか13歳(または12歳[2])で早世してしまう[1]。死後、鄧哀王と諡された[5]

曹操の典医華佗は中国史上稀に見る名医だった。しかし曹操が華佗を重用しなかったので、華佗は医学書を取りに行くといって故郷に帰ったまま、2度と帰って来なかった。怒った曹操は、諫める部下の言葉に耳も貸さずに華佗を投獄し、拷問の末に殺してしまった。それを知った曹沖は、嘆きのあまり死んでしまったとされる。

曹操は危篤状態の曹沖を回復させるため、医者のみならず普段は迷信的であるとして馬鹿にしていた「拝み屋」までを各地から集め、祈祷させたという。死後は、同時期に死んだという美しいと評判の甄家の少女の遺体をもらい受け、結婚式と葬式を同時に挙行させたという[6]吉川幸次郎は「いわゆる冥婚の最も早い例の一つ」と『三国志実録』の中で述べている[7]

曹沖の死は曹操にとって痛恨の事件であり、大いに嘆き悲しんだ。この時、曹操は曹丕に対し「倉舒(曹沖)の死はわしにとっては大きな悲しみだが、お前にとっては喜びだ。何しろ、これでお前がわしの後継者になれるのだからな」と皮肉を言ったという[1]。また、曹丕自身も即位後に「仮に、亡き兄の子脩(曹昂)が生きていたとしても限界があっただろうが、倉舒が生きていたのなら、わしは主となって天下を治められなかっただろう」と述懐している[8]

逸話

象の重さを量る

ある時、孫権からが贈られてきた。曹操はその重さを臣下らに訊ねたが、誰一人答えられなかった。その時、5歳の幼児だった曹沖は「象を船に乗せ、(重さで船が沈むので)その船の水面の所に印をつけ、(象を下ろして)同じ高さになるまで重しを乗せて、その重さを量ればよろしい(アルキメデスの原理)」と答え、曹操を喜ばせた[9]

鼠の齧り跡

ある時、倉庫に保管していた曹操のに齧られた。当時、これは不吉なものと思われ、曹操は倉庫の管理者を処罰しようとした。曹沖は門番に3日経ってから自首するように言い渡し、自らの服に穴を開けた上で曹操に対し「世間では鼠に服を齧られると不幸が来ると言われております。」と脅えたふりをした。曹操はこれに対し迷信だと一蹴した。その後、門番が自首したが曹操は笑って処罰を下さなかったという[10]

ただし、この逸話には別の解釈もある。それによると、曹沖は倉庫番を管理不行き届きの罪から逃れさせるため、自分の服に穴を開けてそれを曹操に見せ、曹操に「身に着けている衣服ですら鼠に齧られるほど鼠が増えているのだから、倉庫の中で壁にかけられていた鞍が齧られてもしょうがない」と思わせることで、倉庫番を無罪にしたというものである。

参考資料

  • 『三国志 魏書 武文世王公傳』陳寿
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
三國志 魏書·武文世王公傳
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
魏略輯本卷第四 傳 三國魏郎中京兆魚豢撰 富平張鵬一輯傳

脚注

  1. ^ a b c d ウィキソース出典 三國志 魏書·武文世王公傳 (中国語), 三國志/卷20#武帝諸子, ウィキソースより閲覧。  - 太祖數對群臣稱述,有欲傳後意。年十三,建安十三年疾病,太祖親爲請命。及亡,哀甚。文帝寛喩太祖,太祖曰:「此我之不幸,而汝曹之幸也。」
  2. ^ a b c 代に丁晏の著した『曹集銓評』の記載、增輯的〈倉舒誄〉序文:「建安十二年五月甲戌,童子曹倉舒卒,乃作誄曰」によると建安12年。
  3. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·武文世王公傳 (中国語), 三國志/卷20#武帝諸子, ウィキソースより閲覧。  - 鄧哀王沖字倉舒。
  4. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·武文世王公傳 (中国語), 三國志/卷20#武帝諸子, ウィキソースより閲覧。  - 太祖數對群臣稱述,有欲傳後意。
  5. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·武文世王公傳 (中国語), 三國志/卷20#武帝諸子, ウィキソースより閲覧。  - 黃初二年,追贈諡沖曰鄧哀侯,又追加號爲公。〉三年,進琮爵,徙封冠軍公。四年,徙封己氏公。太和五年,加沖號曰鄧哀王。
  6. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·武文世王公傳 (中国語), 三國志/卷20#武帝諸子, ウィキソースより閲覧。  - 言則流涕,爲聘甄氏亡女與合葬,贈騎都尉印綬,命宛侯據子琮奉沖後。二十二年,封琮爲鄧侯。
  7. ^ 吉川幸次郎『三国志実録』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1997年3月10日、58頁。ISBN 9784480083319。 
  8. ^ ウィキソース出典 魏略輯本卷第四 傳 三國魏郎中京兆魚豢撰 富平張鵬一輯傳 (中国語), 魏略輯本/卷四#鄧王沖趙王幹(二條), ウィキソースより閲覧。  - 文帝常言「家兄孝廉,自其分也。若使倉舒〈鄧王沖字。〉在,我亦無天下。」
  9. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·武文世王公傳 (中国語), 三國志/卷20#武帝諸子, ウィキソースより閲覧。  - 時孫權曾致巨象,太祖欲知其斤重,訪之群下,咸莫能出其理。沖曰:「置象大船之上,而刻其水痕所至,稱物以載之,則校可知矣。」太祖大悅,卽施行焉。
  10. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·武文世王公傳 (中国語), 三國志/卷20#武帝諸子, ウィキソースより閲覧。  - 時軍國多事,用刑嚴重。太祖馬鞍在庫,而爲鼠所齧,庫吏懼必死,議欲面縛首罪,猶懼不免。沖謂曰:「待三日中,然後自歸。」沖於是以刀穿單衣,如鼠齧者,謬爲失意,貌有愁色。太祖問之,沖對曰:「世俗以爲鼠齧衣者,其主不吉。今單衣見齧,是以憂戚。」太祖曰:「此妄言耳,無所苦也。」俄而庫吏以齧鞍聞,太祖笑曰:「兒衣在側,尙齧,況鞍縣柱乎?」一無所問。
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝
典拠管理データベース ウィキデータを編集
  • VIAF