滕芳蘭

滕皇后
呉の皇后
在位 元興元年10月 - 天紀4年3月15日
264年10月 - 280年5月1日

全名 滕芳蘭
死去 太康5年(284年)以降
洛陽
結婚 永安元年(258年
配偶者 孫晧
父親 滕牧
族父 滕胤
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滕 芳蘭[1](とう ほうらん)は、三国時代の呉の孫晧の皇后。青州北海国劇県の人。父は滕牧滕胤の族子にあたる。

経歴

太平2年(257年)、呂拠と滕胤は共に挙兵して孫綝を討とうとしたが、孫綝の派遣した大軍の前に敗北し、滕胤は誅滅された。

父は滕胤の遠祖であったため、辺境の地に流されたという。しかし永安元年(258年)、父は孫休の即位による大赦で帰還する事ができ、五官中郎に任命された。孫晧は烏程侯に封じられると、芳蘭を妃(正室)とした。

元興元年(264年)7月、孫晧は即位すると、10月に芳蘭を皇后に立て、さらに滕牧を高密侯に封じた上で、衛将軍録尚書事に任命した。しかし朝臣たちは孫晧の暴虐が極まると、滕牧が外戚であったことから、幾度も滕牧を推し立てて孫晧に諌めの意見を言上させた。その頃、既に孫晧の芳蘭に対する寵愛が冷めかかっていたため、孫晧はますます機嫌を悪くした。それが積み重なったため、ついに滕牧は宮廷を追われて蒼梧郡に強制移住させられた。爵位こそ奪われなかったものの、島流しに近い状態であったため、滕牧は蒼梧郡に移住する途中で憂いのあまり死去した。

孫晧は芳蘭の廃后を考えたが、皇后を替えるのは良くないという占が出、また何太后が諌めたので取りやめた。芳蘭は感謝し何太后への拝礼を欠かさなかった。長秋宮(滕皇后の宮)の官僚はただ員数が備わっているだけであり、孫晧は次々と他の女性を寵愛し、勝手に皇后の印綬を佩く夫人の数が夥しかった。

建衡3年(271年)春正月、孫晧が華里(建業の西)まで進んだ際に何太后と妃嬪たちと共に付き添った(『江表伝』)。

太康元年(280年)、呉の滅亡に伴い孫晧に従って洛陽に遷った。

太康5年(284年)12月、孫晧が洛陽で死去した。42歳であった。河南郡の北邙山に葬られた(『呉録』)。芳蘭は非常に悲しい哀愁が漂う哀悼文を、孫晧のために記したという(『建康実録』)。その後、洛陽で死去した。

参考文献

脚注

  1. ^ 『建康実録』卷4:立夫人滕氏為皇后。后諱芳蘭、太常滕胤族女。父牧、五官中郎将。
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝
呉の皇后
皇后

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追贈皇后