汝南郡

曖昧さ回避 陽安郡」はこの項目へ転送されています。唐代に一時期置かれた陽安郡については「簡州」をご覧ください。

汝南郡(じょなん-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の河南省東南部および安徽省阜陽市一帯に設置された。

概要

前漢高祖のときに、汝南郡が置かれた。汝南郡は豫州に属し、平輿・陽安・陽城㶏強富陂汝陽鮦陽・呉房・安成・南頓・朗陵・細陽・宜春・汝陰・新蔡・新息・灈陽・期思・慎陽・慎・召陵弋陽西平上蔡西華・長平・宜禄・新郪・帰徳・新陽・安昌安陽・博陽・成陽・定陵の37県を管轄した。『漢書』によれば前漢の末に46万1587戸、259万6148人があった[1]

王莽のとき、汝汾郡と改称され、一部を分けて賞都郡とした[2]

後漢が建てられると、元の汝南郡に戻された。汝南郡は平輿・新陽・西平・上蔡・南頓・汝陰・汝陽・新息・北宜春・㶏強・灈陽・期思・陽安・項・西華・細陽・安成・呉房・鮦陽・慎陽・慎・新蔡・安陽・富陂・宜禄・朗陵・弋陽・召陵・征羌・思善・宋・褒信・原鹿・定潁・固始・山桑・城父の37県を管轄した[3]。建安年間には2県が分けられ、陽安郡が置かれた[4]

晋のとき、汝南郡は新息・南安陽・安成・慎陽・北宜春・朗陵・陽安・上蔡・平輿・定潁・灈陽・南頓・汝陽・呉房・西平の15県を管轄した[5]

南朝宋のとき、汝南郡は豫州あるいは南豫州に属し、上蔡・平楽・北新息・慎陽・安成・南新息・朗陵・陽安・西平・灈陽・安陽の11県を管轄した[6]

北魏のとき、汝南郡は豫州に属し、上蔡・臨汝・平輿・安成・西平・灈陽・陽安・保城の8県を管轄した[7]

580年(大象2年)、北周により舒州が置かれると、汝南郡は舒州に属した。

が建国されると、舒州は豫州と改められ、汝南郡は豫州に属した。583年開皇3年)、が郡制を廃すると、汝南郡は廃止されて、豫州に編入された。602年(仁寿2年)に豫州は溱州と改称され、606年大業2年)に蔡州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、蔡州は汝南郡と改称された。汝陽・城陽・真陽・新息・褒信・上蔡・平輿・新蔡・朗山・呉房・西平の11県を管轄した[8]

621年武徳4年)、唐が王世充を平定すると、汝南郡は豫州と改められ、豫州総管府が置かれた。742年(天宝元年)、豫州は汝南郡と改称された。758年(乾元元年)、汝南郡は豫州と改称され、汝南郡の呼称は姿を消した[9]

脚注

  1. ^ 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、298-300頁。
  2. ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、298頁、373頁注173。
  3. ^ 後漢書』郡国志二
  4. ^ 『三国志』魏書 李通伝
  5. ^ 『晋書』地理志上
  6. ^ 『宋書』州郡志二
  7. ^ 魏書』地形志二中
  8. ^ 隋書』地理志中
  9. ^ 旧唐書』地理志一
 
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