宜都郡

宜都郡(ぎと-ぐん)は、中国にかつて存在した後漢末から初にかけて、現在の湖北省宜昌市一帯に設置された。

概要

208年(建安13年)、曹操荊州を平定すると、南郡の枝江県以西を分割して臨江郡を置いた。210年(建安15年)、劉備が臨江郡を宜都郡と改称した[1]。劉備は張飛を宜都太守に任じた[2]219年(建安24年)、孫権配下の陸遜が宜都郡を奪った[3]221年関羽の主簿だった廖化は呉を逃亡し、呉征伐のため出兵した劉備と出会って宜都太守に任じられた。260年(永安3年)、呉が宜都郡を分割して、建平郡を置いた[4]。呉では王岐や虞忠を宜都太守に任じた。

晋のとき、宜都郡は夷陵夷道佷山の3県を管轄した[5]

南朝宋のとき、宜都郡は夷道・佷山・宜昌・夷陵の4県を管轄した[1]

南朝斉のとき、宜都郡は夷道・佷山・夷陵・宜昌の4県を管轄した[6]

南朝梁のとき、宜州が立てられ、宜都郡は宜州に属した。

西魏のとき、拓州が立てられ、宜都郡は拓州に転属した。

北周のとき、硤州が立てられ、宜都郡は硤州に転属した。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、宜都郡は廃止されて、硤州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、硤州は夷陵郡と改称された[7]

脚注

  1. ^ a b 宋書』州郡志三
  2. ^ 三国志』蜀書関張馬黄趙伝
  3. ^ 『三国志』呉書呉主伝
  4. ^ 『三国志』呉書三嗣主伝
  5. ^ 晋書』地理志下
  6. ^ 南斉書』州郡志下
  7. ^ 隋書』地理志下
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