谷口正朋

谷口 正朋
Masatomo Taniguchi
故人
シュート
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1946-02-06) 1946年2月6日
没年月日 (2021-05-03) 2021年5月3日(75歳没)
出身地 東京都の旗 東京神田区(現千代田区)神田
死没地 茨城県の旗 茨城県取手市
身長(現役時) 186cm (6 ft 1 in)
キャリア情報
高校 中央大学杉並高等学校
大学 中央大学
ポジション スウィングマン(SG/SF)
経歴
1968-1976日本鋼管
代表歴
キャップ 日本の旗 日本
獲得メダル
日本の旗 日本
バスケットボール
アジア競技大会
1970 バンコク バスケットボール
男子アジア選手権
1965 クアラルンプール バスケットボール
1971 東京 バスケットボール

谷口 正朋(たにぐち まさとも、1946年2月6日 - 2021年5月3日)は、日本の元男子バスケットボール選手である。サウスポーシューター。ミュンヘンオリンピック日本代表

来歴

東京都神田生まれ[1]

中央大学杉並高等学校(現:中央大学附属高等学校)でバスケを始め、3年次に全日本に選ばれ、世界選手権に出場した。

その後中大に進み、4年次にはインカレ優勝に貢献する。

卒業後、日本鋼管に入社。チームの日本リーグ4連覇などタイトルに多大に貢献し同年の第4回日本リーグでは初代MVPなど個人タイトルも獲得。1970年のユニバーシアードでは旗手を務めた。

1972年ミュンヘンオリンピックに主将として出場[2]。チームは14位の成績に終わったものの得点王を獲得した。

サウスポーであることを活かすとともに、ポンプフェイクからのプルアップジャンパーなど多彩なプレーでフィールドゴールを得るピュアーシュータタイプの選手であった。

1976年現役引退。MVP2回・9年連続ベストファイブ・5年連続得点王を獲得した。

引退後は日本バスケットボール協会の専務理事を歴任。全日本のコーチも務め、JBL指導者研修、JBLバスケットボールドリームプロジェクトなどで後進の指導に携わる。2016年に発足された日本バスケットボール推進協議会の会長も務めた。

2021年5月3日2時33分、膵臓がんのため、茨城県取手市JAとりで総合医療センターで死去[3]。75歳没。

経歴

  • 中大杉並高校 - 中央大学 - 日本鋼管(1968年 - 1976年)

代表歴

  • 1965年ユニバーシアード
  • 1967年世界選手権
  • ミュンヘンオリンピック
  • 1970年ユニバーシアード

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ “[追悼記事]谷口正朋さんを悼む、サウスポーから放たれる正確無比のシュートでミュンヘンオリンピックの得点王に”. バスケットカウント. (2021年5月12日). https://basket-count.com/article/detail/77052 2022年8月17日閲覧。 
  2. ^ “男子日本代表オリンピック全戦績”. 2015年3月25日閲覧。
  3. ^ “谷口正朋さんが死去 72年五輪バスケ得点王”. 産経ニュース. 産経デジタル. (2021年5月3日). https://www.sankei.com/article/20210503-IKGP5IVUGRKUPGPYIHY4YIVFQA/ 2021年5月4日閲覧。 

関連項目

外部リンク

  • 殿堂入り - 神奈川県バスケットボール協会
日本の旗 バスケットボール男子日本代表 - 1967 世界選手権
日本の旗 バスケットボール男子日本代表 - 1972 ミュンヘン五輪
日本リーグ
1970年代
  • 70-71 谷口正朋
  • 71-72 谷口正朋
  • 72-73 阿部成章
  • 73-74 横山邦彦
  • 74-75 森哲
  • 75-76 ジェローム・フリーマン
  • 76-77 ジェローム・フリーマン
  • 77-78 森哲
  • 78-79 北原憲彦
  • 79-80 ラリー・ジョンソン
1980年代
  • 80-81 ラリー・ジョンソン
  • 81-82 ラリー・ジョンソン
  • 82-83 岡山恭崇
  • 83-84 ラリー・ジョンソン
  • 84-85 三神雅明
  • 85-86 ラリー・ジョンソン
  • 86-87 中島康行
  • 87-88 三神雅明
  • 88-89 テッド・ヤング
  • 89-90 クレアランス・マーチン
1990年代
旧JBL
2000年代
JBL
2000年代
2010年代
NBL
2010年代