育徳帝

育徳帝
阮朝
5代皇帝(追尊)
育徳帝の御陵
国号 大南
王朝 阮朝
都城 順化皇城(現フエ
姓・諱 阮福膺禛、阮福膺𩡤
諡号 恵皇帝
廟号 恭宗
別号 育徳堂
生年 (1852-02-23) 1852年2月23日
没年 (1884-10-24) 1884年10月24日(32歳没)
実父:建瑞公阮福洪依
養父:嗣徳帝
黎氏応
后妃 慈明恵皇后潘氏調
陵墓 安陵

育徳帝(いくとくてい、ズクドゥックてい、Dục Đức1852年2月23日嗣徳5年2月4日) - 1884年10月24日(建福元年9月6日))は、諱は阮福膺𩡤[1]Nguyễn Phúc Ưng Ái)、後に阮福膺禛(Nguyễn Phúc Ưng Chân)と改めた。嗣徳帝の弟である建瑞公阮福洪依(Nguyễn Phúc Hồng Y)の子。

嗣徳帝には子がなく、3人の甥を養子にしていたが、育徳帝はその中で最年長であった。嗣徳帝は育徳帝の言動に不満を持ち、後継者候補から外そうとしたことがあったが、母の慈裕皇太后范氏姮(ベトナム語版、中国語版)に反対された。1883年7月19日、嗣徳帝が崩御、やむを得ず遺詔で育徳帝を後継者に指名した。しかしその文中に否定的な評価があったため、遺詔を朗読するとき、育徳帝はその部分を削除することを求めた。

嗣徳帝の本来の意は最も幼いが聡明な建福帝にあったとされ、阮文祥尊室説などの権臣もそれを望んでいたため、遺詔をないがしろにしたこと、儀式に臨んで喪服でない緑の服を着用したことなどを理由に、7月23日、慈裕太皇太后の命で後継者の地位を剥奪され、絶食させられて餓えて死ぬ(即位礼は行っていない)。強引な廃位については、廷臣のなかにも潘廷逢(ベトナム語版)のように反対する者がいたが、彼らは皆罷免・追放された。

阮朝の皇帝は元号で呼ばれるが、元号も定められなかったため、生前起居していた宮中の育徳堂にちなんで育徳帝と称されている。のちに子の成泰帝が立つと、恭宗恵皇帝廟号諡号が追贈された。

脚注

  1. ^ 「香」へんに「蓋」

参考文献

  • 大南寔録』正編第4紀巻69 翼宗英皇帝 及び巻70 附廃帝(慶應義塾大学言語文化研究所刊行影印本)
先代
嗣徳帝
阮朝の皇帝
第5代
(追尊)
次代
協和帝
大南の国旗 阮朝皇帝
広南国

僊主1558-1613 / 仏主1613-1635 / 上主1635-1648 / 賢主1648-1687 / 義主1687-1691 / 明主1691-1725 / 寧王1725-1738 / 武王1738-1765 / 定王1765-1776 / 新政王1776-1777

越南皇帝

嘉隆帝1802-1819 / 明命帝1819-1839

大南皇帝

明命帝1839-1841 / 紹治帝1841-1847 / 嗣徳帝1847-1883 / 育徳帝追尊 / 協和帝1883 / 建福帝1883-1884 / 咸宜帝1884-1885 / 同慶帝1885-1888 / 成泰帝1888-1907 / 維新帝1907-1916 / 啓定帝1916-1925 / 保大帝1925-1945

越南皇帝

保大帝1945

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