紀元前515年

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紀元前515年(きげんぜんごひゃくじゅうごねん)は、西暦ローマ暦)による年。

紀元前1世紀共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元239年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前515年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

できごと

ギリシア

ヒュプノスとタナトスに運ばれるサルペードーン、エウフロニオス作、メトロポリタン美術館所蔵

中国

  • の昭公が斉に赴き、斉から帰国して鄆に留まった。
  • 呉が楚を攻撃し、公子掩余や公子燭庸が軍を率いて潜を包囲した。楚の莠尹然や工尹麇が潜の救援に向かった
  • 呉王僚季札を晋に派遣した。
  • 呉王僚が公子光の命を受けた刺客の専諸に暗殺され、専諸もその場で殺された[1]
  • 呉の公子掩余が徐に逃れ、公子燭庸が鍾吾に逃れた。
  • 楚の左尹の伯宛が費無忌の讒言を信じた令尹嚢瓦(子常)の攻撃を受けて自殺した。
  • 晋の士鞅・宋の楽祁・の北宮喜・曹人・邾人・滕人が扈で会合した。
  • 魯の仲孫何忌(孟懿子)と陽虎が昭公のいる鄆を攻撃した。
  • 楚の令尹の嚢瓦は伯宛を死なせたことを国人に非難され、費無忌と鄢将師を滅ぼすことで償いとした。
  • 魯の昭公が再び斉に赴き、斉から帰国してまた鄆に留まった。
  • 曹の悼公が、抑留先の宋で没し、声公が即位した[2]

芸術・建築

誕生

「Category:紀元前515年生」も参照

死去

「Category:紀元前515年没」も参照

脚注

注釈

出典

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  1. ^ 史記』「刺客列伝
  2. ^ 史記』「管蔡世家第五」
  3. ^ s:エズラ記(口語訳)#6:15
  4. ^ “The Stanford Encyclopedia of Philosophy: Parmenides”. Stanford University (2012年6月3日). 2015年6月25日閲覧。

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、紀元前515年に関連するカテゴリがあります。
紀元前6世紀の十年紀と各年
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