神保小虎

神保小虎
人物情報
生誕 (1867-06-19) 1867年6月19日
日本の旗 日本東京都
死没 1924年1月18日(1924-01-18)(56歳没)
出身校 東京帝国大学ベルリン大学
学問
研究分野 地質学鉱物学
研究機関 東京帝国大学・北海道庁
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神保 小虎(じんぼ ことら、慶応3年5月17日(1867年6月19日) - 大正13年(1924年1月18日)は、明治時代から大正時代にかけての地質鉱物学者。

経歴

江戸幕府幕臣神保長致の長男として江戸で生まれる[1]言語学者神保格の兄[1]明治20年(1887年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)で地質学を専攻[2]。同大卒業後、北海道庁技師、全道地質鉱産調査主任を務める[3]。明治25年(1892年ドイツベルリン大学に留学し、鉱物学岩石学などを学ぶ[3]

帰国後の明治27年(1894年)、母校の東京帝国大学理科大学助教授となり、明治29年(1896年)教授、鉱物学教室設立とともに主任教授となり鉱物学講座を担任した[1][3]。明治39年には樺太、大正4年にはロシアウラジオストク地方などの地質・地理を調査した[3]。また、東京地質学会(現:日本地質学会)会長、東京地学協会会長なども務めた[3]

またアイヌ語にも精通し、アイヌ語で講義を行ったこともある[2]。著書に『日本地質学』、『日本鉱物誌』などがある[3]

東京大学鉱床学渡辺武男により昭和38年(1963年)に発表されたマンガンホウ酸塩新鉱物神保石は神保小虎の業績を称えて命名されたものである[4]

人物

学生からは変わり者として知られた[5]。教え子の小野秀雄によると、神保は学生時代、大学構内の寄宿から根津の遊廓に通うために、塀の棒を切断して停学になったことがあり、その時の停学命令を学生たちに見せたりして笑わせていたという[5]

家族

受賞・栄典

位階
勲章等

脚注

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  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『神保小虎』 - コトバンク
  2. ^ a b 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『神保小虎』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e f 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『神保 小虎』 - コトバンク
  4. ^ 『神保石』 - コトバンク
  5. ^ a b 『新聞研究五十年』小野秀雄、毎日新聞社、1971, p14
  6. ^ a b c 神保小虎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  7. ^ 『東京大學卒業生氏名録』1950、p535、『山口高等学校一覧 明治33-35年』p129
  8. ^ 幕末徳島の書家 喜根井善種とその後裔太田剛、四国大学紀要,A 43:209-251,2014
  9. ^ 「数学者吉川実夫と海軍技術中佐吉川春夫」鈴木武雄、大阪教育大学「数学教育研究」 (39), 105-124, 2009
  10. ^ 戦後78年 幻の戦闘機「秋水」(1)読売新聞オンライン、2023/08/10
  11. ^ 『日本の植物学百年の步み: 日本植物学会百年史』1982、p247
  12. ^ 佐伯美津留『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  13. ^ 『毎日年鑑』1919、p408
  14. ^ 三原茂雄「旧制徳島中学校が生んだ数学者~林鶴一・吉川実夫」『学校数学研究』学校数学研究会Vol.19,No.1,pp24~26(2011)
  15. ^ 我が国近代病院管理創始者の1人原素行先生逝く吉田幸雄、『病院』 42巻7号 (1983年7月発行)
  16. ^ 『官報』第2614号「叙任及辞令」1892年3月21日。
  17. ^ 『官報』第6256号「叙任及辞令」1904年5月11日。
  18. ^ 『官報』第584号「叙任及辞令」1914年7月11日。
  19. ^ 『官報』第2132号「叙任及辞令」1919年9月11日。
  20. ^ a b 『官報』第3421号「叙任及辞令」1924年1月21日。

外部リンク

日本語版ウィキソースに神保小虎著の原文があります。
  • 日本地質学会初代会長神保小虎小伝 - 日本地質学会
  • nkysdb: 神保 小虎
  • 『神保小虎』 - コトバンク
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