慶滋保胤

 
凡例
慶滋 保胤
慶滋保胤『前賢故実』より
時代 平安時代中期
生誕 承平3年(933年)以後[1]
死没 長保4年10月21日(1002年11月27日[2]
改名 保胤→心覚(法名)→寂心
別名 内記入道、字:茂能、唐名:定潭
官位 従五位下大内記
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇
氏族 賀茂氏→慶滋氏
父母 父:賀茂忠行
兄弟 賀茂保憲、賀茂保遠、保胤、保章
忠順
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慶滋 保胤(よししげ の やすたね)は、平安時代中期の貴族文人儒学者

丹波権介賀茂忠行の子。官位従五位下大内記。家学であった陰陽道を捨てて紀伝道を志し、姓の賀茂を読み替えて慶滋とした。

経歴

文章博士菅原文時に師事して文章生から大内記兼近江掾となる。康保元年(964年)に念仏結社『勧学会』の結成に力を尽くした。永観元年(983年)には元号を「永観」に改める際のなどを起草している。

若い頃より仏教に対する信仰心が厚く[3]、息子の成人を見届けると[4]寛和2年(986年)に出家して比叡山横川に住した。また同年、念仏結社『二十五三昧会』の結成にも関わったとされる。法名は始め心覚と称し、その後寂心と改めている。内記入道と呼ばれ、諸国を遍歴した後、洛東如意寺(如意輪寺)で没した。なお、藤原道長を授けたこともあり、保胤が没した際、道長がその供養のために、大江匡衡に諷誦文[5]を作らせたとされる[6]

弟子に寂照(俗名:大江定基)がいる。

著作

著書『池亭記』は、当時の社会批評と文人貴族の風流を展開し、隠棲文学の祖ともいわれている[7]。漢詩は『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)及び『和漢朗詠集』に、和歌は『拾遺和歌集』(1首)[8]に作品が収載されており、現代まで伝えられている。

本朝において往生を遂げたとされる人物の伝記を集めて『日本往生極楽記』を著し、後世の往生伝や説話集に大きな影響を及ぼした。同作品中には、保胤の浄土信仰への傾倒が見られる。

官歴

系譜

  • 父:賀茂忠行
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:慶滋忠順

登場作品

説話
近代
現代

脚注

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  1. ^ 『池亭記』の天元5年(982年)の記述に、自らの年齢を「生年五旬に垂(なんなん)とす」(年はもう少しで50歳になる)とあることから、承平3年(933年)より数年ほど後と思われる。
  2. ^ 『続本朝往生伝』では没年を長徳3年(998年)とする。
  3. ^ 「予自少日念弥陀仏」『日本往生極楽記』序文、「自少年之時、心慕極楽」『続本朝往生伝』
  4. ^ 「及子息冠笄纔畢、寛和二年遂以入道」『続本朝往生伝』
  5. ^ 故人の追善供養のために供物と共に僧に差し出す読経を請う文のこと。このときの諷誦文が『本朝文粋』14にある。
  6. ^ 『今鏡』347段
  7. ^ 鴨長明の『方丈記』は『池亭記』を手本にしたとされる。
  8. ^ 『勅撰作者部類』
  9. ^ 『三条左大臣殿前栽合』
  10. ^ 『小右記』
  11. ^ 『続本朝往生伝』

参考文献

浄土教 大乗仏教の一派)
地域別仏教
Mahāyāna Buddhism
日本の主な宗旨
如来
菩薩

観世音菩薩 | 大勢至菩薩 | 薬王菩薩 | 薬上菩薩 | 普賢菩薩 | 法自在王菩薩 | 白象王菩薩 | 獅子吼菩薩 | 陀羅尼菩薩 | 虚空蔵菩薩 | 徳蔵菩薩 | 宝蔵菩薩 | 金蔵菩薩 | 金剛菩薩 | 山海恵菩薩 | 光明王菩薩 | 華厳菩薩 | 衆宝王菩薩 | 月光王菩薩 | 日照王菩薩 | 三昧王菩薩 | 定自在王菩薩 | 大自在王菩薩 | 大威徳王菩薩 | 無辺身菩薩

思想・基本教義
仏典

浄土三部経」(『仏説無量寿経』 曹魏康僧鎧訳 / 『仏説観無量寿経』 劉宋畺良耶舎訳 / 『仏説阿弥陀経姚秦鳩摩羅什訳)
『般舟三昧経』 支婁迦讖

関連人物

【インド】釈尊 | 十大弟子 | 龍樹 | 天親
【中国】廬山の慧遠 | 曇鸞 | 道綽 | 善導 | 懐感 | 少康
【日本】空也 | 良源 | 慶滋保胤 | 源信 | 永観 | 良忍 | 珍海 | 覚鑁 | 源空(法然) | 隆寛 | 弁長 | 親鸞 | 証空 | 一遍 | 覚如 | 蓮如 | 良寛 | 小林一茶 | 清沢満之 | 山崎辨榮 | 鈴木大拙 | 曽我量深 | 金子大栄 | (妙好人)

主要注釈書
ウィキポータル 仏教
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