宇留野勝明

宇留野 勝明(うるの かつあき、寛永7年(1630年) - 元禄14年(1701年))は江戸時代久保田藩家老佐竹氏傍流宇留野氏当主の勝忠(源兵衛)の養子。実家は茂木氏である。藩主佐竹義処の嗣子佐竹義苗の付家老を勤め、中川重頼(宮内)とともに久保田藩初代郡奉行となる。家格は廻座(宿老)。

経歴

父は茂木監物[1]、母は宇留野勝忠の長女。茂木家の長男として出生するが、外祖父の養子となり宇留野家の家督を相続する。幼名は伊勢千代といい、通称源兵衛[疑問点 – ノート][2]。子に勝休、孫に伊勢千代がある。

寛文5年(1665年)に藩主佐竹義隆の命で江戸に上る。寛文9年(1669年)に久保田藩が松前藩から要請を受けシャクシャインの乱の鎮圧応援に戸村義国(十太夫)を軍将とする派遣軍が編成され、宇留野は軍奉行となる。但し、派遣前に平定されたので援軍は中止となった。

寛文11年(1671年)に中川重頼(宮内)とともに久保田藩の初代郡奉行に就任する。延宝元年(1673年)に相手番に就任し翌年200を加増される。

延宝3年(1675年)10月に藩主嗣子の佐竹義苗の傳役となり、天和3年(1683年)に義苗付きの家老に就任する。元禄元年(1688年)には義苗と紀州藩徳川光貞の娘・育姫との婚約が整い、その使者を務めて同年12月に320石加増される。

しかし佐竹義処の治める元禄10年(1697年)11月に家老を罷免されて蟄居を命じられる。元禄12年(1699年)に義苗が藩主嗣子のまま死去するが、その翌年の元禄13年(1700年)3月には隠居し、生涯禁固となる。元禄14年(1701年)に死去。戒名は明通智勝居士。墓所は佐竹藩所縁の曹洞宗義峰山鱗勝院(秋田市旭北町)。

参考文献

  • 則道 著、三浦賢童 編『秋田武鑑 全』無明堂出版、秋田県、1983年。国立国会図書館書誌ID:000001648731。  全国書誌番号:84012329注記:複製。普及版(2005年)は全国書誌番号:20777418、ISBN 4-89544-389-2。
  • 家臣人名事典編集会 編『三百藩家臣人名事典』 1巻、新人物往来社、1987年、[要ページ番号]頁。 

関連項目

関連資料

本文の典拠ではない。項目内は発行年順。

  • 則道『久保田御家中分限帳』江戸時代。秋田県公文書館に複製史料あり。整理番号A-317-4(同館古文書班『古文書倶楽部』第15号、2007年による。)
  • 宇留野弘『佐竹支族宇留野氏系譜 : 秋田に下向した宇留野氏の探訪』秋田 : 宇留野隆、秋田文化出版 (発売)、

2017年。国立国会図書館書誌ID:028725712、全国書誌番号:23005885、ISBN 978-4-87022-580-0。

秋田県立図書館の郷土資料(レファレンス協同データベースより)
  • 『佐竹藩士分限帳‐文久以後‐』上下巻、秋田姓氏家系研究会、1976年。
  • 三島亮(編)『秋田藩分限帳 5』秋田姓氏家系研究会、1976年。
  • 秋田姓氏家系研究会(編)『久保田藩分限帳‐天保12年-』みしま書房、1981年。

外部リンク

江戸詰め、傳役時代の足跡。上屋敷は現・千代田区内神田2–3丁目にあり1682年に被災焼失。1690年前後に三代藩主が建て直した上屋敷は1869年に焼けた。

  • くぼた旧町名物語(4)江戸屋敷跡「台東区・千代田区・足立区」編 (公財)秋田観光コンべンション協会。秋田藩邸の位置図あり(2014年作成)。中屋敷と下屋敷は現・秋葉原の周辺に所在。
    • 佐竹稲荷神社 千代田区観光協会。上屋敷の鬼門よけ。振り袖火事の翌1683年に台東区台東3–4丁目に移ったのち、元の屋敷地に再建。神田駅前。
  • 本に書かれた佐竹の話 佐竹商店街ホームページ。佐竹藩上屋敷と下谷竹町の由来。JR御徒町駅
  • 佐竹抱屋敷跡 足立区。佐竹藩が自己資金で構えた私邸。同区史跡、1982年(昭和57年12月)登録。宇留野が傳役を務めた頃には存在し、1718年に徳川吉宗の命で解体。梅島駅
  1. ^ 則道、三浦 1983, p. 50, 「茂木将監」.
  2. ^ 則道、三浦 1983, p. 72, 「宇留野源太郎」.