北条時光

北条 時光(ほうじょう ときみつ)は、鎌倉時代北条氏の一族。同姓同名の人物が佐介流北条氏に3名確認できる。

  • 北条時房の長男・北条時盛の子。官位は修理権亮(のち修理亮か)。弘安年間の8月、興福寺の満実法印と陰謀を企てるが発覚し、拷問の末に佐渡国へ流罪となった[1]
  • 北条時房の次男・北条時村の孫。父は北条政宗または北条政房。通称は孫七。
  • 北条時員の次男・北条時盛の孫。父は北条時元。兄に北条房実、弟に北条時国がいる。

これとは別に、桜田流北条氏に1名いる。

脚注

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  1. ^ 鎌倉年代記』裏書の弘安7年(1284年)条に「八月之比、修理権亮時光越後守時盛息陰謀事露顕之間、歴種々拷訊之後、配流佐土国、与満実法師同意云々、」〔原文ママ〕とあり、『保暦間記』にも「弘安二年…(略)…同四年…(略)…同八月、修理亮越後守盛時男時房孫也、隠犯事顕テ、佐渡国へ遠流セラル。蒲実法印同意云云」〔原文ママ〕とあって、時光が陰謀の罪によって流罪となったことは確かなようである。但し、この事件の時期については、前者の弘安7年(1284年)に対し、後者は弘安4年(1281年)と異なっている。また、弘安7年に起きた時光の甥・時国による事件との関係性も不透明である。

参考文献

外部リンク

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