三上良二

三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督脚本家である。本名熊谷 了二(くまがい りょうじ)。優秀な助監督から早期に監督に昇進、佳作を生み出し、牧野省三亡きあとのマキノ・プロダクションを支えた。

来歴・人物

1904年(明治37年)8月25日東京都に生まれる。1919年(大正8年)3月、旧制荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)4年修了、1923年(大正12年)7月、法政大学本科を1年次で中退し、関東大震災後の1924年(大正13年)、京都日活関西撮影所現代劇部の監督部に入社した[1]

三枝源次郎に師事、助監督をつとめていたが、1928年(昭和3年)4月で日活を退社、同年5月に南光明根岸東一郎とともにマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した。同社では4歳下のマキノ正博の助監督をつとめ、わずか数か月で監督に昇進[1]、24歳のとき、自らのオリジナル脚本による『新聞』で監督としてデビュー、同作は同年9月21日に公開された。

1929年(昭和4年)、5本目の監督作『勝鬨の唄』が公開になった直後の7月25日、同社の代表・牧野省三が亡くなり、牧野の長男・正博を中心とした新体制が9月に発表になる。監督部の末席・瀧澤憲(のちの滝沢英輔)の次にその名がつらねられた[2]。翌1930年(昭和5年)はまさに同社の戦力となり、8本を監督したが、同年末には、同社の賃金の未払い問題からストライキが起こった。

年が明けて1931年(昭和6年)1月15日には、金森万象稲葉蛟児滝沢英輔久保為義とともに三上も名をつらねた、同社の若手監督5名の共同監督作品『真田十勇士』が公開される。しかし、同社はあえなく解散の方向へと散った。三上は1932年(昭和7年)、マキノ正博プロデュースのもと、柏木一雄との共同監督作品『武士の妻』を手がけるが、このマキノ商会は続かなかった。

1933年(昭和8年)、木下トーキープロダクションで村田実脚本を得て、『ホロリ涙の一ト雫』というトーキーを撮るが、その後、日活東京撮影所に入社、1936年(昭和11年)3月には山根啓司の下で製作部に所属していた。その7年後、つまり1942年(昭和17年)1月の日活の大映への合併後の1943年(昭和18年)には、朝日映画社でアニメーション映画『ニッポンバンザイ』の構成をしたという記録が残っているが、その後の消息はわからない[1]

フィルモグラフィ

日活大将軍撮影所新劇部

1926年 助監督

マキノ・プロダクション御室撮影所

1928年 監督
1929年
  • スキー行進曲 原作・監督 脚本瀬川与志、撮影石野誠三、主演荒尾静一、秋田伸一、北岡よし江
  • 銀座王 監督・脚本 原作川浪良太、共同脚本瀬川与志、撮影若宮広三、主演東郷久義、砂田駒子
  • 勝鬨の唄 監督・脚本 撮影田辺憲治、主演津村博、多見一枝
  • 級友 原作・脚本八田尚之、撮影若宮広三、主演秋田伸一、岡島艶子
1930年
  • 特急本塁打 原作・脚色・主演根岸東一郎、撮影野村金吾、共演東條猛、寺井幾夫、菅野七郎都賀清司、塚口四郎、山口多賀志、川田弘三、早川麗子、三好絹子
  • 草に祈る 総指揮マキノ正博、原作桜井忠温、脚色阪田重則、撮影若宮広三・野村金吾、主演津村博、都賀一司、都賀静子、東郷久義、松浦築枝、早川麗子
  • 学生三代記 天保時代 共同監督阪田重則・松田定次、原作・脚本松本健二郎、撮影三木稔松浦茂・大森伊八、主演根岸東一郎、マキノ登六、新見映郎、和田咲子
  • 砲声轟く 原作山川武夫、脚本阪田重則、撮影野村金吾、主演速見稔、横沢四郎、都賀静子、新見映郎
  • 少年戦線 指導マキノ正博、原作大倉桃郎、脚色・潤色根岸東一郎、撮影野村金吾、主演水谷正一、松浦築枝、都賀一司、荒木忍、三保松子、三好絹枝、速見稔
  • 須磨の仇浪 原作・脚色・出演根岸東一郎、撮影野村金吾、主演東郷久義、三保松子、浦路輝子谷崎十郎、荒木忍
  • 侠骨日記 原作・監督・脚本 撮影野村金吾、主演東郷久義、桜木梅子児島武彦
  • やきもち合戦 撮影山本雅久、主演中根龍太郎、浦路輝子、都賀一司、早川麗子
1931年

マキノ以降

  • 武人の妻 1932年 総指揮マキノ正博、共同監督柏木一雄、原作神谷京太郎、脚本赤沢大助、撮影佐竹三男・石野誠三・加瀬久、録音映音商会技術部、主演マキノ正美毛利安子 ※マキノ商会、配給音映商会
  • ホロリ涙の一ト雫 1933年 原作南部僑一郎、脚本村田実、撮影池戸正享、主演仲上八洲子青木光子石川秀道 ※木下トーキープロダクション、配給ユノキ映画社
  • ニッポンバンザイ 1943年 構成 共同構成永富映次郎、漫画作画前田一木村一郎・浅野匠、原案米山忠雄、音楽飯田景応・若松巌 ※朝日映画社、アニメーション映画

  1. ^ a b c キネマ旬報社[1976], p.382.
  2. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所 所員録、立命館大学、2008年1月28日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク