一条頊子

一条 頊子

称号 万秋門院
身位 准三宮女院
出生 文永5年(1268年
死去 建武5年/延元3年3月26日(1338年4月16日)(享年71)
父親 一条実経
母親 平成俊
役職 従三位尚侍
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一条 頊子(いちじょう ぎょくし/たまこ、文永5年(1268年) - 建武5年/延元3年3月26日(1338年4月16日))は、鎌倉時代後期の女官歌人摂政関白一条実経の娘で、母は平成俊の娘。院号万秋門院

生涯

17歳年下の後二条天皇後宮に入り、乾元2年(1303年)3月5日、従三位尚侍となる。子女はなかった。天皇の崩御により徳治3年(1308年)閏8月に落飾。元応2年(1320年准三宮となり、万秋門院の院号が与えられた。建武5年/延元3年(1338年)3月26日、71歳で死去。『新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集には31首が入集しており、歌人としての活動も見られる。

頊子の院号宣下について、花園院は「伝聞。尚侍項子院号云々。万秋門之由治定云々。院号以無其寄、定有子細歟。後聞。又有准后宣下事云々。是永嘉門院妹云々。是何故乎。」[1]と記しており、同時代人にとっても疑問のあるものであったようである。

『増鏡』では、後二条天皇がまだ幼少だった頃より上臈局として仕え、堀川基俊(後二条天皇の叔父)と深い仲だったが、基俊が関東に下った後に、後宇多上皇(後二条天皇の父)の寵愛を受けたとある[2]

脚注

  1. ^ 花園天皇宸記、元応2年2月26日条
  2. ^ 「一条の摂政殿の姫君も、当代(後二条天皇)堀川の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に十六にて参り給ひて、はじめつ方は、基俊の大納言、疎からぬ御仲にておはせしかど、かの大納言の東下の後、院に参り給ひしほどに、事の外にめでたくて、内侍のかみになり給へる、昔思えて面白し」『増鏡』巻十二 浦千鳥

参考文献

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年
  • 「万秋門院」『女院次第(女院小伝)』(群書類従)
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