タイロン・ウッズ

曖昧さ回避 タイガー・ウッズ」とは別人です。
タイロン・ウッズ
Tyrone Woods
中日時代
(2008年6月1日、西武ドーム
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 フロリダ州ブルックスビル
生年月日 (1969-08-19) 1969年8月19日(54歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
225 lb =約102.1 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1988年 MLBドラフト5巡目
初出場 KBO / 1998年
NPB / 2003年3月28日
最終出場 KBO / 2002年
NPB / 2008年10月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
この表について
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プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ウィリアム・タイロン・ウッズWilliam Tyrone Woods , 1969年8月19日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

メジャー昇格を果たせなかったが、1998年韓国プロ野球(現:KBOリーグ)のOBベアーズ(1999年以降は「斗山ベアーズ」)に入団すると、2002年に退団するまでの5シーズンで通算174本塁打を記録し、1998年には本塁打王・打点王の二冠王を獲得した[1]

2003年 - 2004年NPBセントラル・リーグ(セ・リーグ)に所属する横浜ベイスターズで、2005年 - 2008年は同リーグに所属する中日ドラゴンズでそれぞれプレーし[2]4番打者として活躍した[1]。NPBでは6シーズンで通算240本塁打(年平均40本)を記録したが[3]、いずれのシーズンも35本塁打以上を記録しており、セ・リーグの本塁打王を3回(2003年・2004年・2006年)、打点王を1回(2006年)それぞれ獲得している[1]。また本塁打・打点の二冠王に輝いた2006年には中日のセ・リーグ優勝に、2007年にも中日の日本一に貢献した[1]

KBO・NPBの両方で本塁打王・打点王の二冠王に輝いた唯一の選手である。

経歴

プロ入りとマイナー時代

1988年MLBドラフトモントリオール・エクスポズからドラフト5巡目指名を受け[4]契約し[5]、プロ入り。その後はボルチモア・オリオールズボストン・レッドソックスのマイナー球団を渡り歩いた。

1996年にはレッドソックス傘下の2A(AA級)トレントン・サンダーで99試合に出場し[4]打率.312・25本塁打と好成績を残したほか[6]、27歳で迎えた1997年シーズン(マイナー10年目)にはレッドソックス傘下の3A(AAA級)ポータケット・レッドソックスにて[4]29試合出場で打率.352・9本塁打を記録したが[6]、守備面で問題を抱えていたため一度もメジャー昇格はできず[5]、1997年シーズンまで10年間にわたり10球団を渡り歩いた[7]

斗山時代

大韓民国(韓国)のプロ野球リーグ(現:「KBOリーグ」)に外国人選手制が導入された1998年、第1回外国人選手ドラフトでOBベアーズ(1999年より斗山ベアーズに球団名変更)から2位指名を受け、入団して以降[8]2002年に退団するまで、5年間で通算打率.295・174本塁打・510打点の成績を残した[9][10]。中でも通算174本塁打は、2023年シーズン終了時点でKBOリーグの歴代外国人最多本塁打記録であり[11]、横浜移籍後の2004年には『東亜日報』にてフェリックス・ホセロッテ・ジャイアンツ)とともに「韓国プロ野球史上最強の外国人選手」と紹介されたほか[12]、2016年に同紙がプロ野球ファン1,000人を対象に実施した「歴代最高の外国人選手を問うアンケート調査」でも348票を獲得して1位に輝いている[11]

登録名は「ウジュ우즈)」で[11]、韓国時代はファンから「黒熊」のニックネームで親しまれていた[5]。1998年は来韓1年目で張鍾勲ピングレ・イーグルス1992年)が保有していた韓国記録のシーズン41本塁打を更新する歴代最多(当時)の42本塁打[注 1]を放ち[11]、本塁打王・打点王の二冠を獲得した。同年10月8日には、韓国プロ野球記者協会により外国人選手としては初めてシーズンの最優秀選手(MVP)に選出された[15]

なお李承燁(サムスン・ライオンズ)とは韓国球界時代からライバル関係で[16]、李は後に日本球界でも読売ジャイアンツ(巨人)に所属して2006年にウッズとセ・リーグ本塁打王を競い合ったが[17]、後に「当時の自分の目標は本塁打王や打点王ではなく『ウッズに勝つこと』だった」と述べている[11]

2001年KBOオールスターゲームにてソロ本塁打を含め4打数4安打を記録し、MVPに選出されたほか[18]、レギュラーシーズンで打点王を獲得した。またサムスンとの韓国シリーズでは、第1戦で4回にバルビーノ・ガルベスから逆転勝利のきっかけとなる本塁打を打つなど[19]、計4本塁打を放ち[7]、斗山のシリーズ優勝(4勝2敗・6年ぶり通算3度目)に貢献してMVPを獲得した[20]。これによりウッズは韓国球界における初の「トリプルクラウン」(シーズンMVP・オールスターMVP・韓国シリーズMVP)達成者となったが[21][22]、同年オフには年俸を不満として斗山球団に対し「来季は韓国でプレーしない」と揺さぶりをかけていた[8]。一方で当時、後の所属球団である中日ドラゴンズ山田久志監督の下で主砲候補として新外国人の補強を狙っており、当時の一軍打撃コーチ・佐々木恭介はウッズを「レオ・ゴメスに続く主砲候補」として高く評価していた[23]。佐々木は同年10月23日からウッズの獲得に向けて調査する目的で訪韓し、翌24日から開幕した斗山対サムスンの韓国シリーズを観戦したが[24]、当時ウッズは一塁手以外の守備位置に就いておらず、当時中日の一塁手にはゴメスや山崎武司大豊泰昭がいた[25]。一方で当時の中日の補強ポイントは外野手だったため[26]、山田監督は「打撃面だけなら申し分ないが獲得は保留する。本人が承諾すれば同年11月の浜松秋季キャンプで外野手として使えるか守備テストを行い、外野手として使えるなら獲得する」と方針を決めた[25]。結局、ウッズは日韓協定により11月いっぱい拘束されることとなったため最終的に中日はウッズ獲得を断念し(リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルスコット・ブレット外野手を新外国人として獲得)[27]、ウッズも斗山に残留することとなった[8]

2002年は年俸23万1000ドル+オプション10万ドルの報酬を受け取っていたが、同年は打率.256・25本塁打・82打点と期待外れの成績に終わり、シーズン終了後には「最高の待遇をしてくれなければ韓国でプレーしない」として日本球界進出を模索するようになった[8]。この発言を受けて斗山はウッズに対し電話で「年俸凍結で再契約する」と伝え、クァク・ホンギュ団長は『東亜日報』の取材に対し「去年と同じで『韓国でプレーしない』という発言はこけおどしだろうが、契約する気があるのなら保留選手締め切り期限の2002年11月30日までに返信してほしい。同日までにウッズから契約の意思が伝わってこなければ他の外国人選手を探す」と述べていた[8]。一方で同年オフには千葉ロッテマリーンズ(当時の監督:山本功児)が同年限りで退団したフランク・ボーリックの後釜となる長距離打者としてウッズの獲得に向け調査していたが[28]、ロッテは最終的にはウッズの獲得を断念し[29]、4番候補として[30]元横浜のロバート・ローズを獲得した[注 2][31]

横浜時代

2002年12月9日にスティーブ・コックスとともに横浜ベイスターズ監督山下大輔)との入団交渉が合意に達したことが発表された[9]。この時すでに33歳であった。1年契約で[32]、当時の推定年俸は5000万円・背番号は44[9]、年俸とは別に契約金・出来高として最大1億5000万円程度のオプションも設定された[22]。なお同時に入団したコックスの契約内容は移籍金100万ドル・年俸275万ドル(当時の日本円で推定年俸は3億円[33]ないし3億2000万円)[34]とウッズよりはるかに高額な契約だったが、コックスは全くの期待外れに終わり、わずか1年で退団している[33]

2003年1月29日には神奈川県横浜市内の球団事務所内でコックスやマット・ホワイトサイドとともに3人で新外国人選手の入団会見に出席した[35]。シーズン開幕前は同じ一塁手の座を争うコックスが現役大リーガーだったため[36]、外国人枠(当時4人)の関係上[注 3]ウッズはコックスの控えという位置付けだったが[37]、そのコックスが宜野湾春季キャンプ中に怪我で離脱すると代わって4番に定着した。開幕当初こそ韓国に比べ変化球の制球力に優れる日本の投手たちに戸惑ったが[注 4]、「球を長く見よう」と意識を改め、高木由一打撃コーチからの助言を受け右方向への流し打ちを意識したことで外角の変化球を引っ掛けることが減り、5月には月間MVPを獲得した[39]。最終的には100打点には届かなかったもののアレックス・ラミレスヤクルトスワローズ)とともに40本塁打を放ち本塁打王を獲得した。ベイスターズの選手による本塁打王獲得は、横浜大洋ホエールズ時代の1988年にカルロス・ポンセが獲得して以来だった[40]。またKBO・NPBで本塁打王を獲得した史上初の選手となったが、これを達成したのは2023年シーズン終了時点でウッズただ1人である。同年11月13日には前年から倍増となる年俸100万ドル(日本円で約1億1000万円)の1年契約で翌シーズンの契約を締結することに合意した[41]

来日2年目の2004年シーズンは他球団から徹底的にマークされるようになった中で[42]、前年を上回る45本塁打を放ち、タフィ・ローズ巨人)と分け合う形で2年連続の本塁打王を獲得したほか、打点も100を超え最終的に103打点をマークした。2004年10月8日に米国へ帰国する前に「来季も横浜でプレーすることを希望する」とした上で「来シーズンからの2年契約・年俸大幅アップ」を要求。しかし、球団側は「2年目の契約を解除できる条項を盛り込んだバイアウト方式による2年契約」を提示したため折り合わず、山中正竹球団専務も「現時点では2年契約はない。金銭面も外国人選手に甘すぎるところがあった」としてウッズの要求を受け入れなかった[43]。結局、高齢・得点圏(チャンス)に弱いことなどもネックとなり、横浜を退団。

その後は中日ドラゴンズに加え、同年オフにジョージ・アリアスを解雇し一塁のポジションが空いていた阪神タイガース[44]が獲得オファーを出していたが、横浜退団が決定的となった直後に『サンケイスポーツ』(産業経済新聞社)は「ウッズは前年(2003年)オフに横浜から中日へ移籍したドミンゴ・グスマン代理人が同じ[注 5]」という関係から「移籍先は中日が本命」と報道していた[45]。中日(監督:落合博満)の白井文吾オーナー・西川順之助球団社長らは西武ライオンズとの日本シリーズで敗退した直後の2004年11月1日までにウッズの獲得競争に名乗りを上げ[46]、2004年12月2日には球団史上最高額となる2年総額10億円でウッズを獲得したことを発表した[47]。中日移籍の背景としてはウッズ自身が「優勝できるチームでプレーしたい」と考えていたことに加え[48]レオ・ゴメスが退団して以降の中日は長距離砲不在が懸案となっていたことから、課題点の長打力を補強することを目標としており、2年連続本塁打王に輝いたウッズはその補強ポイントにピッタリとハマる存在だったからである[47]。2004年12月14日には背番号が横浜時代と同じ44番に決まったことが発表された[49]

なお中日時代の2006年には契約交渉などで代理人を務めていたアメリカの法人[注 5]が「2003年1月[注 6]に代理人契約で『ウッズが受け取った年俸などの6%を報酬として受け取る。契約を解除した場合はその時点で未払いの報酬金を支払う』とする契約を締結したが、ウッズが翌2004年12月に中日入りした直後に契約を解除され、契約金から報酬を支払われていない[注 7]」として報酬6000万円(2年契約・年俸10億円のうち6%)の支払いを求めて名古屋地方裁判所民事訴訟を提訴しており[51]、中日退団後の2009年(平成21年)3月2日には東京地方裁判所山崎勉裁判長)が被告・ウッズに対し「原告・代理人へ約1300万円を支払うことを命じる」判決を言い渡している[注 8][52]

中日時代

2005年、4月2日の横浜戦(ナゴヤドーム)で6回裏に移籍後初本塁打を放った[53]。6月16日のオリックス・バファローズ戦(ナゴヤドーム)では6回裏に15号逆転本塁打を打ち、NPB通算100本塁打を達成[54]。7月は打率.378(リーグ1位)、3本塁打、15打点、28安打(リーグ1位)の成績で、月間MVPを受賞した[55]。8月6日の対横浜戦(横浜スタジアム)では、来日初の1試合3本塁打を放った[56]。3年連続本塁打王こそ逃したがチームトップの38本塁打を放ち、2年連続の100打点と初の打率3割[57]も記録。しかし、セ・パ交流戦開始前日の5月5日に開催された対ヤクルト6回戦(ナゴヤドーム)で藤井秀悟の頭部付近への投球に激怒、藤井の右頬を殴り退場処分を受け(後述[58]、さらに10試合出場停止という処分を課された(この2人は、後に和解している)。ウッズの不在が出場停止期間に始まった交流戦で大きく響き、チームはウッズ離脱中に2勝8敗と大苦戦を強いられた[59]。ウッズは出場停止期間明けの5月18日に復帰したもののすぐには調子が上がらず、打線もつながりを欠き[注 9][60]、同年のチームは交流戦の低迷ぶりを「降竜戦」と揶揄されるほどで[60][61]、リーグ戦再開後には持ち直したが最終的には阪神に遠く及ばずリーグ連覇を逃すこととなった[62]

2006年、来日当初から指摘され続けていた勝負弱さを克服[48]。開幕当初は不振[63][64]も、自己最多の47本塁打[注 10]を放ち、2年ぶりの本塁打王と初の打点王を獲得し、リーグ優勝に大きく貢献(球団としては、本塁打王は1996年山崎武司、打点王は1994年大豊泰昭以来で、両タイトルとも本拠地がナゴヤドームに移転後初)。古巣の横浜相手には特に強く、打率.372、本塁打12本を記録。マジック1で迎えた10月10日の対巨人戦では46号先制3ラン、47号満塁本塁打を放ち7打点を挙げ、西沢道夫の持つシーズン本塁打球団記録(46本)を更新し、優勝を決めた[66]。この野球中継で実況を担当した河村亮が47号満塁本塁打を放った際「痛烈!一閃!」という名実況を残している[67]。なお47号は前日9日に続く2試合連続満塁弾で、これは日本プロ野球史上、前年のベニー・アグバヤニロッテ)に続き史上6人目、セ・リーグでは1953年藤村富美男大阪タイガース)以来53年ぶり2人目の快挙だった。144打点も球団新記録でプロ野球史上歴代6位の記録であり、2020年現在最後の140打点達成者となっている。北海道日本ハムファイターズと対戦した日本シリーズでも全試合4番を務め、打率は.267(15打数4安打)と悪くはなかったものの本塁打0、打点は0で、日本一にはなれなかった。同年12月19日には優勝旅行先のアメリカ・ラスベガスで契約更改交渉を行い、1年契約・年俸6億円で合意した[68]

2007年8月16日の対阪神タイガース戦(京セラドーム大阪)で、6回表に下柳剛から来日通算200号本塁打を放った[69][70]。この年よりセ・リーグに導入されたクライマックスシリーズでは、1stステージと2ndステージ初戦で本塁打を放った[71]。日本シリーズでは日本一になった第5戦で、この試合の唯一の得点となる平田良介の犠牲フライでホームを踏み[72]、最後の打者となった小谷野栄一の二塁ゴロでウイニングボールを掴んだ。同年オフには残留することで合意し、2008年1月4日には現状維持の年俸6億円で1年契約を結んだ[73]

2008年も4番打者を任されていたが、中日打線がセ・パ交流戦に入ってからチーム打率1割台と低迷していた[74]ため、5月29日のオリックス戦(ナゴヤドーム)では4番を和田一浩に譲り3番でスタメン出場[74][75][76]。中日移籍後初めて4番を外された[74]。その後6月14日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で4番に復帰した[77]が、自身の不振が原因で[78]7月26日の阪神戦(阪神甲子園球場[78]から前半戦終了まではスタメンから外れた[79]。選手間投票で選出された[80]オールスターゲームでは、8月1日の第2戦(横浜スタジアム)で成瀬善久から本塁打を放った[79]

9月4日のヤクルト戦(明治神宮野球場)にて9回表に30号2点本塁打を放ったことで外国人選手初となる6年連続30本塁打以上を記録し[5]、最終的には来日以降6年連続35本塁打以上を記録したものの[2]、35本塁打・77打点とともに来日以降最低の数字に終わった[81]。また同年は得点圏打率.227と勝負弱さが際立ち、チャンスで凡退する場面が何度も見られ、高額な年俸に見合った成績とはいえなかった[2]。39歳と高齢なことに加え、守備面の不安・体力の衰えから中日球団は同年限りの解雇を検討していたが、クライマックスシリーズでは7試合で5本塁打[81](チームトップ)[注 11]を放ち活躍した[81]。そのため球団内部で「新外国人選手獲得よりウッズと再契約するほうがいい」という意見が噴出し[81]落合博満監督も「(ウッズは)戦力として必要かと言われれば必要だろう」との見解を示した[82]。最終的に中日は1年契約で年俸300万ドル(約2億8200万円)をベースに残留交渉する方針を固めたものの、ウッズは「自分にもプライドがある」と減俸を拒否した[81]。結局、2008年11月4日に中日は正式に来季の契約を結ばないことを発表し[2][83]、同年12月2日付で日本野球機構(NPB)より自由契約選手として公示された[84]

当時の中日打線にはシーズン30本以上の本塁打を打てる打者がウッズ以外にいない状態だったが、落合監督以下首脳陣はフリーエージェント(FA)選手の獲得・大物新外国人の補強はせず、既存戦力もしくはドミニカ共和国を中心とした将来性のある外国人選手などで「大砲不在」の状況を克服する方針を決めていた[2]。そのウッズの穴埋めとして獲得したのがドミニカ共和国生まれで米国下部リーグ出身のトニ・ブランコ[85]、ブランコは来日1年目の2009年シーズンこそ契約金500万円・年俸3000万円の1年契約だったが[86]、同シーズンに全試合で4番打者を務め39本塁打・110打点で本塁打王・打点王の二冠王を獲得し、ウッズの穴を埋める大活躍を果たしたことで同年オフには2年契約・年俸1億7000万円+出来高払い(2年総額約4億6000万円)と大幅な年俸アップを勝ち取った[87]

中日退団後

退団が濃厚となった際には「指名打者(DH)制があるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)球団が獲得に乗り出すことは確実。福岡ソフトバンクホークス東北楽天ゴールデンイーグルスなど複数球団による争奪戦も予想される」と報道されたが[81]、高年俸・高齢がネックとなり実際にはオファーはされなかった。当時、『中日スポーツ』の電話取材では「まだ日本でやりたいという気持ちが強い。他球団からのオファーを待つ」と語っている。また2009年5月には阪神タイガースが打撃不振の新外国人ケビン・メンチの代役候補としてウッズの名前を挙げていたが[88][89]、球団はクレイグ・ブラゼルと契約したため日本復帰は実現しなかった。

2010年プロ野球シーズン開幕前(3月24日)にテレビ番組収録のため来日して退団後初めてナゴヤドームを訪れ、次代の4番であるトニ・ブランコらを激励した[42][90]

中日退団後はフロリダで不動産業を営んでおり[42]、正式な表明をしてはいないが野球選手としては完全に引退状態にある。2010年11月には『中日スポーツ』(中日新聞社)の取材に対し[91]「パ・リーグよりよく知っているセ・リーグの方が力になれる」と語り、セ・リーグ球団からのオファーがあれば検討する意志を示したが[92]、オファーはなく現在に至るまで復帰していない。

2020年には、フロリダ州タンパで牧場経営を行っており、牛を飼育していることが公表された[3]

選手としての特徴

韓国時代から「打撃に起伏がなく大きな短所がない。他の選手と異なり大舞台でも緊張せず普段通りの力が出せる」点に加え、野球に真摯に打ち込む誠実な態度が高く評価されていた[93]

持ち味のパワーは高校時代からのウェイトトレーニングの賜物である[39]。高校時代にはアメリカンフットボールを経験しており、アメフトで鍛えた体が後の日本球界での活躍に繋がった[3]。そのパワーは金本知憲が「横浜時代にライナーでナゴヤドームのレストランに直撃させた」と証言し、広澤克実が「多分横浜に来た選手でバックスクリーンを超える選手は(ウッズ以外に)いなかった」と太鼓判を押すほどであった[94]。また来日時にはパワーだけでなく、アロンゾ・パウエルセシル・フィルダーといったNPBで成功を収めた外国人打者と同じような柔軟な手首の使い方を横浜のフロントから評価されていた[29]

2003年6月8日の巨人戦では工藤公康からバックスクリーン右のスタンドを飛び越える本塁打を放っている。この時点で2003年シーズン19本中5本目の場外弾となったため、あまりのパワーに球団も事故防止のため横浜スタジアムの場外に警備員を配置することを急遽決定、横浜の新名物として盛り上がった[3]

一方、守備力はアライバコンビの足枷になるほど低かった。彼はその極端な守備範囲の狭さから荒木雅博を送球イップスに追い込み、ある時井端弘和が投じた頭部付近へのノーバウンド送球をミットに当てることすらできず後ろに逸らし、井端が「あれも俺のエラーになるの?」と嘆いた逸話も残っている[95]。ただし荒木本人は引退後に「自分がイップスになったのはウッズのせいではない」と強調している[96]

足はそこまで鈍足ではなかったものの、NPBでは一度も三塁打を打つことがなかった。2940打席連続生涯無三塁打はNPB1位の記録である[97]

人物

中日時代に結果を残した背景には落合博満監督の配慮によるストレスフリーな環境があり、試合日以外は完全に自由時間であった上に、遠征先で雨天中止になると自宅への帰宅を落合に許可された。落合は「あいつは放っておいても成績を残すよ。だから、自由にやらせているんだ」と調整に全幅の信頼を寄せ、当時30代半ばを迎えていたウッズも身体のケアやウエートトレーニングに精を出し応えた[3]

ドレッドロックスが特徴で好物はキムチラーメンもつ鍋アレックス・カブレラとはリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル時代からの旧知の仲である。

同じアフリカ系アメリカ人のシェリル夫人と一人の息子がいる。

私生活では「ヌードル」と名の付いたイングリッシュ・コッカー・スパニエルを飼っていたが、これは前の飼い主が付けた名前をそのまま使っていたものである[3]

本塁打を打った後、ホームベース付近で右手拳で胸を2回叩き、顔を上に向け右手人差し指に口づけをする。これはホームランを打つ肉体を作ってくれたことに対して神に感謝するという意味を込めているといわれている[3]

同じアフリカ系アメリカ人タイガー・ウッズと名前・イニシャルが似ているため、横浜入団直後の2003年2月に宜野湾春季キャンプ・フリー打撃練習で特大本塁打を放った際にははタイガー・ウッズを引き合いに「ハマのウッズもタイガー・ウッズばりの飛距離だ」「202メートルのスーパーショット」と報じられたほか[36]、2003年6月10日には『読売新聞東京夕刊で「(当時19本塁打と)セ・リーグ本塁打王争いのトップを走るタイロンも『飛ばすこと』ではタイガー・ウッズに負けていない」と報じられた[39]。中日入団決定時に中日スポーツ紙で「タイガー・ウッズ選手が中日入団決定」と、名前を間違えて報じられた。球場のアナウンス・テレビでの呼称ともに単に「ウッズ」ではなく「タイロン・ウッズ」とフルネームで呼ばれることが多かった。

本人が『週刊ベースボール』2003年6月23日号の独占インタビューで語ったところによると、アメリカ球界の場合チームがその選手にどれだけお金を使ったかという政治的な事情が考慮されて試合に出場するメンバーが決まるが、韓国球界や日本球界はチーム内で調子の良い9人をゲームで使う意識が根付いているとのことである。政治的なことを抜きに出場機会が決まる環境は自分にとっていい環境なのではないかと本人は考え、アロンゾ・パウエルからも「ニッポンはいい国だぞ」と予てより聞いていた[3]

クリーンナップを組んでいた福留孝介とのコンビは「FW」や「FW砲」と中日スポーツで名づけられたことがある[98][99][100][101][102]。また、和田一浩が移籍してきた2008年は「WW砲」と名づけられた[77][103][104]

退場歴

2005年5月5日に開催された対ヤクルト6回戦(ナゴヤドーム)では、5回裏の打席で顔付近への投球に怒り、更に藤井秀悟から舌を出して挑発をされたと受け取り(藤井は投球時に舌を出す癖がある)、同投手の右頬を殴って退場処分になり[58]、10試合の出場停止と50万円の罰金処分を受けた。これに関しては、2005年4月6日の対ヤクルト戦(神宮)で3番手投手の五十嵐亮太の投球を左手小指に受け、骨折(亀裂骨折で全治6週間と診断)させられていた中でもチームのために出場を続けていた[105]状況下で、同じように前日の対ヤクルト戦で死球を省みない内角高めのコースを攻め続けられた配球に対して怒りを示しており、その変化の無い危険な配球も伏線に繋がったと考えられる(捕手は五十嵐の時と同じ古田敦也[注 12]。出場停止の影響で、その時点で首位を走っていた中日が直後に始まった交流戦で大きく負け越し、この年の優勝を逃す結果となった。ウッズの抜けた穴は大きく、交流戦で連敗している間スポーツ紙には「ウッズ・ショック」の見出しが躍った。なお藤井は2008年3月5日更新の自身のブログにおいて、ウッズとのツーショット写真を掲載し和解している[106]

2007年5月2日の巨人戦(ナゴヤドーム)では、2回裏の打席で見逃し三振に倒れた際に球審に暴言を吐いたとして退場処分を受けた[107]。チームも試合に敗れ6連敗を喫した[107]。ただ、翌日の同カードでは同点の9回裏二死一、二塁の場面で右中間にサヨナラ適時打を放ち、チームの連敗を止める活躍を見せた[108]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1998 OB
斗山
126 521 452 77 138 14 1 42 280 103 1 2 0 2 65 5 2 115 13 .305 .393 .619 1.013
1999 124 544 454 90 135 20 0 34 257 101 5 2 0 3 83 8 4 126 14 .297 .406 .566 .972
2000 127 565 479 91 151 22 0 39 290 111 4 1 0 3 77 5 6 132 13 .315 .414 .605 1.020
2001 118 525 436 101 127 16 2 34 249 113 12 3 0 5 83 4 1 114 11 .291 .402 .571 .973
2002 119 469 407 53 104 18 3 25 203 82 5 2 0 7 50 3 5 123 11 .256 .339 .499 .838
2003 横浜 136 551 479 73 131 17 0 40 268 87 2 3 0 4 66 2 2 132 14 .273 .361 .559 .921
2004 130 551 476 84 142 15 0 45 292 103 2 1 0 0 74 8 1 142 16 .298 .394 .613 1.007
2005 中日 135 584 506 92 155 20 0 38 289 103 3 0 0 4 67 3 7 139 24 .306 .392 .571 .963
2006 144 614 523 85 162 29 0 47 332 144 1 2 0 6 84 4 1 151 22 .310 .402 .635 1.037
2007 139 593 466 85 126 16 0 35 247 102 3 1 0 5 121 19 1 153 15 .270 .418 .530 .948
2008 140 573 490 77 135 18 0 35 258 77 0 1 0 2 78 3 3 138 18 .276 .377 .527 .904
KBO:5年 614 2624 2228 412 655 90 6 174 1279 510 27 10 0 20 358 25 18 610 62 .294 .393 .574 .967
NPB:6年 824 3466 2940 496 851 115 0 240 1686 616 11 8 0 21 490 39 15 855 109 .289 .391 .573 .964
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • OB(OBベアーズ)は、1999年に斗山(斗山ベアーズ)に球団名を変更

タイトル

NPB
  • 本塁打王:3回(2003年、2004年、2006年)
  • 打点王:1回(2006年)
KBO
  • 本塁打王:1回(1998年)
  • 打点王:2回(1998年、2001年)

表彰

NPB
  • ベストナイン:3回(2004年、2006年、2007年)
  • 月間MVP:4回(2003年5月、2005年7月[55]、2006年9月、2007年5月)
  • 優秀JCB・MEP賞:1回(2007年)
KBO
その他

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録

背番号

  • 33(1998年 - 2002年)
  • 44(2003年 - 2008年)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ なお翌1999年8月2日、李承燁(サムスン・ライオンズ)がシーズン99試合目の[13]ロッテ・ジャイアンツ戦(大邱市民運動場野球場)にて文東煥から43号本塁打を放ったことでウッズの記録を更新し[14]、最終的には年間54本塁打を記録している[13]
  2. ^ しかし結局ローズは開幕前のオープン戦で不調に終わったことから「野球に対する情熱がなくなった」とロッテを退団し、ロッテは開幕直前にローズに代わる新外国人として韓国・SKワイバーンズに在籍していたホセ・フェルナンデスを獲得した。
  3. ^ 2003年1月時点で横浜の外国人選手はウッズ・コックス・ホワイトサイドの3人に加え、前年から所属していたクリス・ホルトドミンゴ・グスマン(ともに投手)の計5人がいた[35]。なおドミンゴは2004年に中日へ移籍しており、2005年 - 2006年には中日で再びウッズとチームメイトになっている。
  4. ^ 本人は2007年9月に『中日新聞』(中日新聞社)の取材に対し「日本に来て一番感じたのは投手のレベルの高さだ。スピード・制球力・変化球の種類のいずれもレベルが高く、投手力は韓国より優れている」と述べている[38]
  5. ^ a b 当時の代理人会社はアメリカ・イリノイ州のプロタレント・インク社[50]
  6. ^ 代理契約締結時期は原告側訴状では「2003年1月」[51]、判決では「2002年12月」[50]
  7. ^ ウッズ側は中日との契約交渉に関して「自分で契約した」と主張して代理人への報酬支払いを拒んでいた[50]
  8. ^ ウッズの弁護士によればプロ野球選手の代理人報酬をめぐる判決は異例だった[52]
  9. ^ 広岡達朗は当時の中日打線の低迷の原因を「昨年は打線につなぐ意識が浸透していたが、今年はウッズに依存しようという意識がマイナスに働いている」と指摘していた[60]
  10. ^ 本塁打の内訳は、ソロ本塁打21本、2点本塁打16本、3点本塁打6本、満塁本塁打4本[65]
  11. ^ このうちの1本塁打は第1ステージ第3戦(阪神戦)の0対0で迎えた9回に抑えの藤川球児から打った2ラン本塁打でこれが決勝点となった。
  12. ^ この時は二塁ベース上の立浪和義らグランドに居た選手が止めたので事なきを得た。

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参考文献

  • 『完全保存版 プロ野球 セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2003』 第27巻、第3号(2003年3月号増刊・通算270号)、日本スポーツ出版社〈ホームラン〉、2003年3月29日、122,176,185頁。 

関連項目

外部リンク

  • “은퇴선수(타자)” (朝鮮語). KBOリーグ. 韓国野球委員会. 2019年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月4日閲覧。
  • 個人年度別成績 タイロン・ウッズ - NPB.jp 日本野球機構
 
業績(NPB
セントラル・リーグ本塁打王
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ打点王
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ ベストナイン(一塁手)
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
 
業績(KBO
韓国野球委員会MVP
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
韓国野球委員会韓国シリーズMVP
1980年代
  • 82 金裕東
  • 83 金奉淵
  • 84 柳斗烈
  • 86 金正洙
  • 87 金準桓
  • 88 文熙秀
  • 89 朴哲祐
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
韓国野球委員会本塁打王
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
韓国野球委員会打点王
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代